鰯雲


 空に浮かぶ鰯雲をぼんやりと眺めていました。不思議なものですよね。空に浮かんでいるときには、すうっとした印象を与えていたのに、声に出して名前を呼ぶとなんだかかわいらしく感じられて、それでいて漢字で書くと今度は堅苦しさが溢れ出して、ついでにおいしそうにも見えてくる。そんな大衆魚みたいな雲を、何を考えるともなく見ていた時のことでした。
 誰かが呼んでいるんです。何をって、私の名前を。何度も何度も繰り返し、喉が渇れるんじゃないかってぐらい大きな声で呼ぶんです。駅前の駄菓子屋さんで、苺味ののど飴を買ってあげましょうか。美味しい上によく効くんです。良薬は口に苦しとは限らないみたいですね。彼の呼ぶ声に対して、相変わらず返事はしませんが。
 少しずつ、彼の声が遠ざかっていきます。やや疲れも見えているような気がします。これだけ何度も呼ばれて、一言も返さないなんて、私はちょっといじわるなのかもしれません。でも、今は返事をするわけにはいかないんです。むしろ息をする音すら隠すぐらいのつもりで、気配を潜めなければ。ぶわっと吹いた少し強めの風を受けて、周りの葉がかさかさと音を立てます。その向こうの空には、相変わらず鰯雲が浮いています。
 いつの間にか、彼の声は聞こえなくなっていました。聞こえるのは、風のそよぐ音と蝉の声、それと時折聞こえる鳥たちの鳴き声ぐらいのものです。あれはなんという鳥だったか。ゆったりと流れる空の下、穏やかな時間が過ぎて行きます。
 他に考えることもないので、頭の中に鰯雲を浮かべていると、その隙間から彼が現れました。しかし向かい合っているはずの彼から私は見えないようで、大声で私の名前を呼び続けます。一々声を張り上げて人の名前を呼ぶ癖はどうにかならないものか。愚痴を言っても仕方がないので、今度は返事をすることにしました。手を上げて、ここにいると意思表示。彼の瞳を見れば、何も映ってはいません。当たり前です、私の作り上げた空想なのですから。
 何度か想像上の彼に会っているうちに、日が暮れて来たようです。赤みがかった夕空は綺麗だとは思いますが、私は昼間の青空の方が好きです。そろそろ退屈してきましたよ、なんて言葉を漏らしそうになりながら、どことなくうつらうつらとしていると、突然正面に彼の顔が現れました。もう何回目だろうと思いながら彼に向って手を伸ばすと、この手を掴む確かな感触を感じました。彼の口が、今までとは違う言葉を紡ぎます。
 たまにはかくれんぼも、よいものです。


電車を待ちながら書いてた文を伸ばしてみただけ。ただのかくれんぼ。
冬に書いてたはずなのに、気づいたら夏のお話になってました。


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