五


 魔法使いの里を出発し、長い街道を歩き、途中で馬車に揺られ、そろそろ旅にも疲れつつあった五日目の昼過ぎ。地図の通りに歩けているならば、もうすぐ村が見えてくるだろうと思っていたソーダたち四人の視界に入ってきたのは、綺麗に並んだいくつもの石であった。そばに小さな小屋も立っている。近づいていくうちに、ソーダたちはその石が墓石であることに気づいた。この先の村の墓地であろうか。
「あら、あなたたちもお祈りでしょうか」
 近づいたソーダたちに、墓の前に佇む一人の女性が話しかけてきた。灰色のフードを被った、長い黒髪の彼女は、白い花を抱えている。
「たまたま通りがかっただけですが……祈り、ですか?」
 墓参りならわかるが、祈りとはどういうことだろう。浮かんだ疑問をフェンネルが口にした。
「あらあら、何も知らずにいらしたのですね」
 彼女は少し驚いた風に答えつつも、そのままにこやかに話しだした。
「ここのお墓は、特別なところでして。歴代の勇者とその仲間たちが、ひそやかに眠っているのです。そのような場所ですから、魔王の力が少しでも弱まりますようにとお祈りする方もいるのです」
 思いがけない内容を、彼女はさらりと話した。四人とも、歴代の勇者たちが同じ場所眠っているなどという話は初めて聞いた。
「そ、それって、本当ですか?」
 半信半疑な気持ちを隠せないまま、コーンが尋ねた。女性は抱えていた花を墓に供えながら、ゆっくりと語る。
「疑いたくなるのも無理はないでしょう。あまり知られてはいない、国ぐるみの隠し事ですから。この墓地のことは、訪れた方だけの秘密ですし、その理由に至っては絶対に話さないよう箝口令が出ております。それでも、訪れる方は案外といますけれど」
 穏やかに話す女性の隣で、供えられた白い花が風で揺れている。
「そこまで隠されるような、重要なことがあるのですか……」
「私もただの墓守ですから、大したことは知らないですけれど、とても重要なことだそうで。けれど、知らなくて困ることでもないでしょう」
 女性は残りの花を供え、目を閉じる。彼女も、祈りをささげているのだろう。静寂が流れる。やがて目を開いた彼女は、墓に刻まれた文字を読んでいるフェンネルにゆっくりと近づいた。
「なにか、気になりましたか?」
「……どの代も、一人だけ没年が、やけに早いような気がしますが」
 名前の下に刻まれた、一人一人の生没年。どの代も、勇者を含む三人の没年は大きく離れてはいないが、同じ代の中で一人だけ、若くして命を落としていることがわかる。
「その通り、いつも一人だけ、先に死んでしまうのです」
 何かを思い出すように、宙に視線を遣って、女性は語る。
「魔王を倒す際に、歴代の勇者はみな、誰か一人、仲間を失ってきました。世界が救われたことの喜びが大きすぎるためか、世間にはあまり知られておりませぬが」
 まるでその様子を見てきたかのような女性の言葉は、静かな墓地にゆったりと響く。
「今の魔王が準備を整え、世界を本格的に滅ぼし始めるまで、早ければあと六日といったところでしょうか。それまでには、今の勇者様も魔王と戦い……また一つ、墓標が増えるのでしょう」
「そうはさせない」
 一瞬、目を見開いたソーダは、静かな声で即座に否定した。墓に向けられていた女性の視線が、ソーダに移る。
「あら。それはつまるところ」
「俺は、勇者です。どんなに無理だと、不可能だと言われようと、全員、守ります」
 少しだけ震える声で、ソーダは言った。フェンネルはソーダの方を向こうとしたが、結局目をそらしてしまった。
「そうでしたか、縁起でもないことを話してしまい申し訳ありません。ああ、ですがそういうことでしたらつまり、あの男は本当に知っていたのですね。少々お待ちください」
 流れるように話すと、女性はぱたぱたと小屋に向かってしまった。ソーダたちがその場で立ち尽くしているうちに、女性はまたぱたぱたと駆けて小屋から戻ってくる。その手には、黒い紙が握られていた。
「今朝方、この先の村の方々が、全員さらわれてしまったのです。不気味な、呪いの力によって、操られるような動きでみんなどこかへ歩いて行ってしまいました。その犯人の、長身の男の姿に化けた魔物が、近くにいた私にこの手紙を渡していったのですが……内容が内容で、困っていたところなのです」
 そう言いながら、女性が広げた黒い紙には、赤い文字がびっしりとずらずら書かれてあった。黒地に赤というだけでも読みづらい文字が、小ささと密度のために余計に読みづらくなっている。
「読みづらいかと思いますので、要約した内容を申しますと、村人を助けたいのならば勇者が一人で村の先にある城に乗り込んで来い、といったところでしょうか。どうやらこのバジリコという名の魔物、勇者を倒すためなら手段は選ばない様子です」
「そ、そんな、卑怯なことを……」
「まぁ、魔物とは、大抵がそういうものでありますし」
 アセロラの言葉からは、魔物の行動への驚きや怒り、非難の気持ちが滲むが、女性はあくまで穏やかに話す。
「さて、私がこの手紙をお見せしたのは、やはりお世話になっている村の方々を、助けていただきたいからなのですが……世界と秤にかけてしまえば、当然のことながら世界には及ばないものです。ですので、無理にとお願いするつもりはありません。ただ、一応お伝えしておきたかったのです」
 女性はそのまま、黒い手紙を畳んでポケットにしまおうとした。だが、ソーダはそれを止めた。
「助けに、行きます」
 それまで自分のペースで話していた女性は、ソーダの言葉に驚き、僅かの間固まった。そして驚いた顔を不安そうな表情へと変えた彼女は、確かめるように尋ねる。
「……本当に、よろしいのですか?」
 ソーダは彼女の目を見て、しっかりとうなずく。
「はい」
だが、今度はフェンネルが口を挟んだ。
「そのリスク、本当にわかってるのか?」
「俺は、村の人も、お前も、誰一人犠牲にしないと決めた」
「そのための選択で、世界が滅ぶかもしれないとしてもか」
 今度は目をそらさずに、フェンネルはソーダの目を見て問いかけた。
「世界は滅ぼさせない、絶対に守り抜く。だけど、そのために誰かを犠牲にしたくない。だから俺は、村の人を助けに行く。そして絶対に、生き延びる。だから……俺を信じてほしい」
 まっすぐに視線を返し、はっきりと言うソーダに、フェンネルはそれ以上言い返せなかった。逃げてばかりの、かつてのソーダとは違うのだ。フェンネルが願った以上に、ソーダの諦めないという意志は強くなっていた。
「……先輩、そんなこと言っておいて、もし死んだりしたら、杖で殴るぐらいじゃ済みませんからね」
「大丈夫だ。絶対、生きて戻ってくる」
 いつもの薄っぺらな自信家の言葉とはまるで違う、しっかりとした声でソーダは言った。

 *

「ここが、例の城か」
 湖に浮かぶ小さな島、そこに立つ石造りの城を見ながら、ソーダはつぶやいた。まだ夕方にもなっていない明るい時間帯であるにもかかわらず、灰色の城はおどろおどろしい雰囲気を漂わせている。その門は、歓迎するように大きく開かれており、城と同じく石造りの橋を渡ればそのまま中に入れるようであった。
「……絶対俺は、生き延びる」
 自分に言い聞かせるように唱え、ソーダは橋に向かった。どんな罠があろうと関係ない。全て破って必ず勝つ。ソーダはもう一度、心の中で唱えた。
 そんな時、敵はいきなり現れた。湖の中から、魚の頭とカエルの胴体の魔物が勢いよく飛び出し、ソーダに襲いかかった。ソーダはすかさず水色の宝石の杖を空高く掲げ、雷撃を放った。バチバチと放たれた稲妻に撃たれて、魔物はぼとぼとと湖に落ちていく。
「お前らなんかに負けでもしたら、合わせる顔がなさすぎるからな」
 湖の魔物たちをあっという間に片づけると、ソーダは再び歩き出した。伝説の剣も背中に背負っているが、今はまだ杖を構えている。伝説の剣で魔法を使うことに慣れつつはあったが、指輪で補助的な魔法を使う分、杖で魔法を使うのと比べて体力の消耗が激しい。そのため、魔王と戦うときにも魔王以外は杖の魔法で倒すつもりであったし、今回もその予行で、ボスと思われる魔物以外は杖で倒すことにしていた。
「……!」
 もうすぐ門にたどり着きそうだというところで、再び魔物の気配を感じ、ソーダは身構える。だが、まもなくして聞こえてきたのは魔物の足音でも鳴き声でもなかった。振動とともにゴゴゴという音がする。嫌な予感がしてソーダが走り出すと、背後で石が崩れる音と、水に沈む音が聞こえ始めた。門の中へ踏み入ったソーダが振り返ると、バラバラに砕けた橋が湖に沈みつつある。あっという間に、橋を形作っていた石は全て沈んでしまった。
「罠か……発動が遅くてよかった」
 もう少し早く発動していたら、間に合わなかったかもしれない。そう、ソーダが思ったとき、再び石の割れる音がした。今度はソーダの足元である。
「なっ……」
 城の入り口一帯の床が、一斉にひび割れ、崩れていく。このままでは誰が走ったとしても、入り口の向こうの廊下にはたどり着けないだろう。
「魔法使いを、甘く見るな!」
 バランスを崩し一瞬慌てたソーダだったが、すぐに杖を構えなおし、風の魔法を発動させた。水の中へと落ちかけていたソーダの体が、下からの風でふわりと浮かび上がる。そのまま風に乗って廊下へ向かい、そっと着地した。
「橋だけじゃなくて城の入り口まで壊すとか……自分の城だっていうのに、ここの魔物はなんでもありかよ……」
 悪態をつきつつ、暗い廊下をソーダは歩き始めた。この先にも、滅茶苦茶な罠が待ち受けているかもしれないが、怯んでもいられない。周囲に警戒しつつ、ソーダは城の奥へと進んだ。

 *

 転がる石、落とし穴、左右から迫る壁。運動の苦手なソーダには厳しい罠がいくつもいくつも仕掛けられている城だが、ソーダは魔法を使って強引に切り抜けてきた。だが、魔法を使う分だけ体力も消耗している。そろそろ罠は終わってくれないと、いい加減厳しいかもしれない。そんなことをソーダが考えていた時、曲がり角の先に小さな扉が現れた。ここまでにも、何度も開けている扉と同じような形をしている。まだ続くのかと思いつつ、警戒しながらにソーダは扉を開いた。
「死ねええ!」
 叫び声と共に、扉の向こうから飛んできた炎の塊を、ソーダは間一髪のところで避けた。他の扉で不意打ちを経験していなければ、当たっていたかもしれない。
「ちっ、外したか……だが、ここに来るまでに散々消耗したはずだ。この私、悪魔貴族バジリコ様の前で散るがよい!」
 炎を放った魔物は、廊下の先の広間で再び攻撃の準備をしている。このまま廊下で戦うのは不利だ。広間の中に入り、伝説の剣を抜いたソーダは、高笑いしている魔物バジリコに向かって構えた。
 長身のその魔物は、人型に近い姿をしていた。だが、全身が真っ黒なバジリコの頭には、大きな角が左右に一本ずつ生えている。ぐるりと曲がり、先の尖った白い角が、真っ黒な顔によく映える。そして、上を向いていた角の先は、根本からくるっと回ったかと思うと正面にいるソーダの方へ向けられ、小さな炎が灯った。炎は一気に大きくなっていく。
「散るのはお前だ!」
 先手必勝、ソーダは剣をバジリコの足元に向けた。放たれた魔法が床の石を捉え、粉砕していく。そして床の下、湖の水を操りバジリコを包もうとする。だが、バジリコの背からは突如真っ黒な羽が生え、飛びながら水をひゅるりとかわし、両手でも抱えきれないぐらいの大きさとなった角の先の炎を放った。
「私は悪魔貴族、魔王様の次に強い存在だ!」
 バジリコはその両手からも炎の塊を放った。合計四つの炎の塊が、ソーダに襲いくる。
「要するに、魔王よりかは弱いってことだろ!」
ソーダは剣をまっすぐ前に向けたまま、その場でくるりと回った。湖の水は剣に誘導されるように動き、ソーダが剣を上に向けると、半円形の水の壁が出来上がる。炎は水の壁を貫きかけたが、貫ききる前に勢いを失い、消滅していった。それを確認すると、ソーダはバジリコの方へ剣を向け、それに合わせて動き出した水は津波となり、バジリコを襲った。勢いよく高速で迫る津波だったが、バジリコは羽を大きく広げて飛び立ち、再び避けてしまう。壁にぶつかった津波は勢いを失い、重力に従って流れていく。その上空で、バジリコは腕を組み、座っているような恰好をとった。その顔には、余裕そうな笑みが浮かんでいる。
「確かに、魔王様に敵わないのは事実だ。だが、勇者を倒すのにわざわざ魔王様が直々に手を下される必要などない! そして、それを証明すれば、我がナンバー2の地位は揺らがないのであり……手段は選ばぬぞ」
 バジリコがそう言った途端、広間の壁が動き出した。ガタガタと動く壁からはいくつもの通路が現れ、骸骨姿の魔物や獣型の魔物など、様々な魔物が現れる。その数は、今ソーダの視界に入る範囲でも軽く三十を超えるだろう。
「愚かな勇者め、わずかな犠牲を惜しみ、一人で来たことを後悔するがよい!」
 パチンとバジリコが指を鳴らしたのを合図に、魔物たちは一斉にソーダの方へ向かった。だが、ソーダは動じない。
「愚かだと言われようが関係ない、もともと、愚かな選択肢ってことも覚悟の上で来たんだ」
 体力が惜しいと思ったソーダは、伝説の剣を右手に持ち替え、左手でいつもの杖を構えた。
「だが俺は、絶対に生き延びる!」
 杖の先から、羽のような氷の刃があふれ出し、ソーダの周囲で渦を巻く。同時に巻き起こった吹雪の中で、激しく舞い踊る真っ白な刃は、近づく魔物たちを次から次へと切り刻み、赤く染まっていった。正直なところソーダはその赤が気に入らない。凍りつかせる方がソーダの好みであった。だが、自分にとって体力の消耗の少ない氷魔法を使いつつ、バジリコの炎を警戒するのであれば、凍らせるよりも刃にした方が安全だと判断していた。
「どれだけその得物を赤く染め上げてもか。だが、私の力はこの程度ではない! 貴様の血で真っ赤に染め上げてやろう!」
 バジリコは声高に叫んだかと思うと、その背中から黒い剣を取り出した。刀身も柄も、全てが真っ黒な剣を、何本も何本も、何もない場所から取り出し、宙に並べていく。
「さぁ、この黒き刃を真っ赤に染め上げるがよい!」
 何十本もの黒い剣が、バジリコの周囲から一斉に放たれたかと思うと、その剣はすぐにバラバラになり、何千本もの刃となった。手下の魔物たちのことなどお構いなしなのだろう、数えきれないほどの黒い刃は広間中に飛び散り、ソーダにも魔物たちにも、避けられるような隙間はない。ソーダは氷の刃の渦を縮め、その密度を高めた。氷の刃と黒い刃がぶつかり合い、互いに弾ける。だが、弾ききれなかった刃がソーダの頬を掠めた。頬だけでない、腕、脚、背中と、何本ものナイフが切り裂いていく。ソーダは痛みに顔を歪めた。
「この程度……俺はまだっ……!」
「諦めろ、貴様も、貴様の仲間も、ここで終わるのだ」
 言いながら、ソーダの方へ歩いてきたバジリコは、先ほどまでと違う姿をしていた。フード付きの黒いマントを羽織った、長身の男。その姿に、ソーダは見覚えがあった。それは二週間ほど前のこと。眠らない街で、堂々巡りの話し合いをしていた時のこと。
「お前はっ!」
 アセロラに白い石を渡した男を、ソーダは睨みつける。
「仲間のことが不安か? だが安心するがいい、貴様ら全員、仲良くあの世行きなのだからな!」
 高笑いと共にバジリコは、先ほどの倍の刃を降らせた。

 *

 歴代の勇者たちが眠る墓地の、隣に立つ小さな小屋。そこは、アネモネと名乗った墓守の家であった。必要最低限のもの以外はほとんど見当たらない、殺風景という印象も受ける部屋の中で、アセロラとコーンはソーダが戻ってくるのを待っていた。フェンネルは、家には入らず墓地にいるようだ。
「ということは、アネモネさんの家は、代々墓守をしているのですか」
 ホットミルクを飲みながら、アセロラはアネモネと雑談していた。甘い牛乳は、心を落ち着かせてくれる。
「えぇ。いつ頃からかは私も知りませんが。曾祖母の、更にその前までのことでしたら、お話を聞いたことがあるのですけれど」
 窓の外を眺める二人の間に、穏やかな時間が流れる。青い空と緑の草原の風景は、墓地の持つ重みに似合わず、なんとものどかである。
「その、ずっとここに一人でいるのって、寂しかったりはしないんですか?」
「寂しい、そうですね、全く寂しくない、などということはありませんが、案外と平気なものです。たまに、訪れる方々がおりますし、週に一度は村に行きますし」
 ゆったりとした声で話すアネモネに、にこにこと笑うカモミールとはまた違った優しい雰囲気を、アセロラは感じた。
「なるほど……」
 ともすれば眠くなってしまいそうな空気の中で、アセロラは違和感を感じた。いくらなんでも、まぶたが重たすぎる。意識がすっと落ちていくような気がする。
「あら、アセロラさん? 大丈夫ですか?」
 アネモネの声がぼんやりと聞こえるが、アセロラの世界はやがて暗闇に包まれてしまった。ゆっくりと目を閉じたアセロラは、椅子に座ったままテーブルの上にうつぶせになるように眠ってしまった。席を立ち、近寄ったアネモネがゆするが、目覚める気配もない。
「あれ、アセロラちゃん、大丈夫?」
 気づいたコーンも近寄るが、アセロラはぐっすり眠っている。
「突然、どうされたのでしょう……」
「疲れてるのかな」
「それにしては、あまりに急で妙な気もしますが……ひとまず、ベッドまで運んでいただけますか?」
「は、はい」
 ここまでの旅で、疲れがたまっているのも当然と思うコーンだったが、確かに突然こんなにも深く眠ってしまうのはおかしい。アセロラを運びながら、コーンは次第に不安を感じた。
「大丈夫かな……」
 アセロラをベッドに横たえながら、コーンはつぶやいた。アネモネが医学書を取りに行ったが、とりあえずはフェンネルも呼んだ方がいいだろうか。そう思い、コーンが部屋の外へと出ようとしたとき、背後でむくりと起き上がる音がした。
「あ、アセロラちゃん?」
 振り返ると、先ほどまで熟睡していたアセロラが起き上がっていた。だが、どこか様子がおかしい。起き上がったアセロラは、そのまま立ち上がり、何も言わずにテーブルの方へ戻った。困惑しながらコーンが追いかけると、アセロラはテーブルに立てかけてあった樫の木の杖を手に取り、勢いよくコーンを殴った。
「い、痛っ! あ、アセロラちゃん!」
 殴ってきたアセロラの目を見て、コーンは気づく。アセロラは、姿かたちこそいつも通りだが、目だけは違った。いつものアセロラの目つきではない。それは、つい先日、何度も見た覚えのある目つきだ。今のアセロラの目は、真理の塔のゾンビによく似ている。
「あ、あら、これは……」
 医学書を倉庫から取り出し、戻ってきたアネモネもアセロラの様子のおかしさに気づく。
「あの、アセロラちゃんの目が」
「……呪い、ですね」
 アネモネは短めの細い杖を取り出し、アセロラの前で円を描いた。アセロラの動きが止まり、そのままくらりと倒れかけたのをコーンが受け止める。
「えっと、呪い、ってことは……」
「神聖魔法で呪いそのものを追い出せればいいのですが、あいにく私に使えるのは封じる魔法だけでして。ですが、そうですね、不幸なことに、彼女にかかった呪いはとても強力なものです。一方、幸運なことに、彼女は神聖魔法を使えるようですから、呪いに抗うことができています。まだ完全に打ち勝っているわけではありませんが、彼女の心は、呪いと戦うことができています」
「ええっと、つまり?」
 ゾンビとの戦いにあたって、呪いや神聖魔法について多少は説明してもらったコーンだが、普段かかわりがないためにいまいち説明を理解できない。
「そうですね、どう説明いたしましょうか……ふつう、呪いを解くためには、神聖魔法で呪いを取り出さなければなりません。これは、おわかりですか?」
「は、はい、一応……」
 手を口元に当て、あれこれと考えながらアネモネは説明していく。
「ただし、今回の呪いは強力すぎるため、余程の力を持った神聖魔法、それこそ、世界一などと言われるようなものでなければ、取り出すことはできないでしょう。どのみち、この場に彼女以外で神聖魔法を使える人はいませんが」
 アネモネは一呼吸置き、コーンの様子を見ながら続きを説明する。
「この分だと、どうしようもない状況のようにも見えますが、むしろ呪いにかかっているのが彼女でよかったのかもしれません。彼女が持っている神聖魔法の力、それは、内側から呪いに対抗する力となります。ああ、そうですね、この説明のためには、呪いについて補足しておく必要がありますか。呪いが、対象に取り付いて、ゾンビのように操るなど、様々な効果を与える、というところまではご存じでしょうか?」
「えっと、なんとなくですが……」
 コーンはどうにか理解しようと、今までの知識を手繰り寄せ、頭の中で必死に話を整理していく。
「その、取り付く場所、というのが、対象の心なのですが、特に心の闇と言われる部分に取り付きやすいのです。呪いは、人間の負の感情を好み、それをエネルギーとします」
「心の闇……」
「ですので、結論としましては、彼女は今、心の中で戦っているということ、その相手は彼女の心の闇でもあるということ、でしょうか。そして、それに勝てば呪いは解けますし、負ければ、そうですね……」
 アネモネは、そこまで言って言いよどんだ。コーンも、その先に言おうとしたことは、察せてしまう。
「……僕たちに、なにかできることってないんですか?」
「そうですね……傍にいること、以外はないでしょう。悪い夢にうなされる方を、支えるように傍にいること、それがおそらく、私たちにできる唯一のことでしょう」
「それじゃあ、僕、急いでフェンネル君も呼んできます!」
 アセロラを横たえ、コーンはすぐさま外に向かった。どうしてソーダ君がいないこんな時に、そんなことを思ってしまったが、とにかく今自分にできることをしようとコーンは気持ちを切り替えた。そうする他ないのだ。

 *

 真っ暗な、何も見えない世界が、どこか心地いいとアセロラは思ってしまった。死後の世界のような、普段の世界から外れてしまったようなこの場所は、自分によく合っているような。そんな気がしながら、アセロラは暗い世界を歩いていた。
どこまで行っても先が見えない道を、真っ直ぐに歩いている。どこが道なのかも、視覚には全く分からないが、足元の感覚から、おそらくここが道なのだろうと思い、歩いていく。その行先も、その意味もわからないが、歩かなければならない気がしていた。世界に不要な自分は、そうしなければならないと感じていた。
 やがて視界に、見覚えのある景色が映った。きらびやかに輝く、眠らない街の夜の姿。そこで遊びにふける、ソーダの後ろ姿。自分は結局、彼を説得できなかった。やがて景色は変わり、逃げ惑う人々と、襲いくる魔物たち、そしてあの、黒く巨大な魔物の姿が映る。自分は本当に、誰かを救えたのだろうか。助けられてばかりだった。足手まといになっていたことだろう。視界に映る学校の中で、真っ白な石のことを思い出す。自分も役に立ちたくて、これ以上迷惑をかけたくなくて、そのために使うと決めたけれども、その選択は本当に正しかったのだろうか。
 暗闇に映る景色はくるくると回り、森に変わった。森の中の風景と、洞窟の中の風景が、交互に流れていく。このときだって、そうだ。使える魔法の限られている自分は、守られてばかりだった。癒しの魔法や、手当の技術は、本当に必要だったのだろうか。自分さえいなければ、そもそも怪我をせずに済んでいたのではないだろうか。くるくる廻る疑問とともに、景色も再びくるくると回った。
 歯車に覆われた街で、先輩が現実に立ち向かうと決めたことが、とても嬉しかった。いつもの先輩に戻ったことに、安心した。けれど、自分の力では、彼の心を動かすことができなかった。奇妙なものにあふれた家が視界に映る。あの家で、自分はなにもできなかった。王様の話を聞いて真理の塔に向かったのだって、本当は、逃げたかっただけなのかもしれない。塔の中で、ゾンビが倒れていく。役に立てているのだと、安心感を感じながら、上っていた。だけれどもそれは、上っている間だけの儚い夢で。結局のところ、巨大なゾンビの前に自分はなにもできなかった。ラベンダーの勇気がなかったら、今頃どうなっていたかもわからない。彼女にお礼を言われて嬉しかった半面、情けない自分がとても申し訳なかった。
「やっぱり私って、いらないのかな」
 ぽつりと、アセロラの口から言葉がこぼれた。視界はいつの間にか、暗闇に戻っている。けれど一つだけ、違うところがあった。遠くにぼんやりと、扉が見える。あの扉を開けて、あの先に行かなければならない。そんな気がして、アセロラは扉の方へと更に歩いた。
「……どうして?」
 途中で、腕を掴まれた気がした。後ろから、誰かが、掴んでいる。振り返っても、そこには誰もいないが、何やら暖かい感覚がする。本当に、前に進んでいいのだろうか。疑問に思うが、この暖かさは、探している暖かさではないような気もする。探しているものは、やはり扉の向こうに行かなければ、見つからないのかもしれない。アセロラは、再び歩き始めた。

 *

 降り注ぐ黒い刃の雨が、動きの止まったソーダを切り刻もうとする。だが、掠った刃の痛みで目が覚めた気がした。動揺している場合ではない。もしも今、アセロラたちが大変なのだとしたら。なおさら自分は、生きてここから帰らなければならない。ソーダは咄嗟に杖を手放し、両手で伝説の剣を持ち直した。手早く行ったつもりだが、その間にも黒い刃は全身を切り裂いていく。ソーダは一気に魔法を放った。剣から溢れる冷気が、触れた刃を凍りつかせ、凍りついた刃から漏れ出す冷気が、更に隣の刃を凍らせていく。瞬く間に、ソーダの周囲とその上空の刃は全て凍りついてしまった。黒い氷の柱が出来上がる。
「やっぱり、そうか……」
 感じた通りの力だと、ソーダは思った。伝説の剣を使うたび、徐々に感じつつあった、剣自体が持つ力。初めはそれを、魔王を倒すための力だとしか思っていなかったが、次第にそれだけではないのではと気づき始めた。そして、先ほどまではなんとなく浮かんでいるだけでしかなかったその使い道が、ようやくはっきりとしたイメージとなり脳裏に映る。。
「勇者っていうのが、お前が思ってるほど簡単に倒せるような存在じゃねぇってこと、教えてやる!」
 ソーダは、自身が作った氷の柱を粉々に砕き、降り注ぐ結晶の中でバジリコに狙いを定めた。真っ黒な魔物の姿に戻ったバジリコも、今度は炎を纏った黒い剣を周囲に広げつつある。
「そんなことはない、ここで滅びるのは貴様らだ!」
 ソーダが魔力と生命力を集めていくのと同時に、バジリコの周囲にも燃え盛る黒い剣が増えていく。翼のように並んだ剣は、そろそろ百を超えるかもしれない。だが、それらが放たれることはなかった。
「滅ぶのはお前だ!」
 ソーダの声と共に、バジリコと周囲の剣は、一瞬のうちに光に包まれた。巨大な光の柱が、バジリコに降り注ぎ、彼自身も、黒い剣も、全て消し去っていく。
「ど、どこに、こんな、ちか、ら、が……」
 柱から漏れる断末魔も、すぐに途絶えた。降り注ぐ光の柱が消え去ったとき、広間に立っているのはソーダだけだった。
「これが伝説の剣の力、か」
 伝説の剣が持っている力は、魔法に上乗せして使うことで、その威力を増大させられる。とりわけ光に関しては、魔力とも生命力とも違う、なにか特殊な力を感じた。先ほどの魔法も、万全の状態で使った同じ魔法より、ずっと強大なものであった。それはもはや、魔法ではなく、魔法より上位の力による攻撃なのかもしれない。もしこれを使いこなせたとしたら。
 だが、今はその力についてじっくり考えている場合ではなかった。ソーダは血まみれの体をどうにか動かして、広間の奥にある扉へ向かった。その扉には南京錠がかかっているのが遠目にもわかる。明らかに、誰かを閉じ込めることを目的とした扉だ。おそらく村人は、その中にいるのだろう。早く村人を解放し、アセロラたちの元へ向かわなければならない。ソーダは急いだ。

 *

 時折誰かが、肩や腕に触れる気がする。時折誰かが、自分を呼んでいる気がする。それはとても暖かなものに感じられて、しかし自分の望むものではないようにも感じられた。結局望むものは、あの扉の向こうにしかないのかもしれない。背後に感じる暖かさを振り払いながら、アセロラは暗闇の中を歩き続けた。三百六十度、どこを見渡しても暗闇ばかりの世界に存在する、ぼんやりとした扉。その扉を目指して歩き、やがて辿り着いた。すぐ近くで見ても、未だにどこかぼんやりとしているその灰色の扉は、何でできているのかわからないが、触れると冷たい。取っ手もきっと冷たくて、けれど自分はそれを掴み、開かなければならないのだ。そんな気がしてならないアセロラは、冷たい取っ手に手を伸ばそうとした。だが、その腕を、再び誰かに掴まれている感覚がする。それは、今までに触れてきた他のどの手よりも暖かく、懐かしい感覚だった。後ろを振り向いても誰もいないことはわかっているが、それでも誰かがいるような気がした。呼び止められているような気がする。自分が扉を開けることを、止められている気がする。
「でも、私は行かなきゃならないの。私は、いらないから」
「……に行……だろ」
 必死な声が、聞こえる気がした。どうして自分を止めるのだろうか。そんなことに意味があるのだろうか。
「私は、足手まといにしかならないから。いない方がいいんだよ」
「……度もな……救われ……」
 声は先ほどよりも、はっきりと聞こえた気がする。腕を掴む力も、強くなった気がする。自分は扉を開けなければならないというのに、どうしてこんなにも強く、邪魔をするのだろうか。邪魔をすることに、なんの意味があるのだろうか。わからない。どうしようもなくわからない。
「私がいったい、何の役に立つの?」
「……お前のおかげで、俺は努力できた。お前のおかげで、これからも戦っていける。アセロラがいなかったら、俺はなにもできない!」
 今度ははっきりと、声が聞こえた。暗闇の中で、聞こえないはずの言葉が、響く。信じていいのだろうか。都合のいい幻聴ではないのだろうか。だが、それは疑う気持ちが粉々になってしまうほど、必死で、真っすぐな声だった。この声を、少なくとも疑いたくはない。できることなら信じたい。そんな気持ちで振り返ったとき、暗闇の世界は途切れた。

 *

 村人たちに支えられながら、ソーダが必死の形相で小屋にたどり着いたとき、アセロラの呪いは今にも彼女を蝕みきってしまいそうであった。そんな彼女に、ソーダが必死に言葉を投げかけたのが二時間ほど前のことで。
アセロラはまだ眠っているが、それはとても穏やかな眠りであった。アネモネによると、呪いはすでに解けているから、あとは普通に目覚めるのを待てばよいらしい。ソーダたち三人は外に出て、墓地の側の丘に並んで座っていた。細い月の浮かぶ夜空に、たくさんの星が散らばっている。
「眠らない街の時にも思ったが……本当に、アセロラちゃんのことが大切なんだな。好き、なのか?」
「好き、って言葉でも表せられるのかもしれないが……俺にとってアセロラは、生きてることを認めてくれた存在であり、生きる理由、だと思う」
 夜空を見上げながら話すソーダは、包帯まみれだった。この前のように見た目ばかりが酷い怪我であったため、心配した村人たちによって包帯でぐるぐる巻きにされてしまったのだ。だが、心配する気持ちもわかるため、ソーダは大人しく巻かれていた。
「昔、まだ小さかった頃から、俺は本当に、魔法以外なにもできない子どもで……あの頃は、魔法以外もがんばっていたんだが、結局人並みにすらできなくて、褒められることなんかなかった。魔法だけは褒められたが、あくまで魔法だけ、魔法しかできない、そういう言い方でしか、褒められなかった」
 お前らも初めはそうだっただろ、と言いながら、ソーダは続ける。
「けど、アセロラだけは違った。俺の魔法を、純粋に褒めてくれた。他のことを引き合いに出さずに、すごい魔法だと言ってくれた。それに、俺、いつもいつも俺の魔法は才能だって感じのことばかり言われてきたんだが、俺はせめて魔法だけでもと思って、他の何よりも魔法に努力してきたつもりで……それを認めてくれたのも、アセロラだけだった」
 その時のことを思い出したのか、ソーダはふわりと笑みを浮かべた。
「小さい頃の話だから、アセロラはもう覚えていないかもしれないが、それでも俺は、あの時認めてもらえなかったら、自分が生きていることを、未だに自分で認められずにいたかもしれない。アセロラがいたから、今の俺がいる。俺が世界を守りたいと思えるのも、そのために戦えるのも……アセロラがいるからだ」
 星を見ていたソーダは、そのまま目を閉じた。
「……勇者とその仲間って、天の使いが王様に伝えてくれるんだよね。神様は、そんなことまで、全部知ってたのかな」
「どうだろうな。魔法使いを勇者に選んでる時点で、大概だとは思う」
「そういえば、そうかもね」
 ソーダの隣で空を見上げたまま、コーンは笑った。子どもっぽい、けれど見ていて安心するような笑みだ。
「でも、守りたい、って思う気持ちは、大事だし、神様はそういう基準で選んだのかな」
「そうだとしても、もしどこかで神に会えるのなら、文句の一つや二つ言ってやる」
「そこは同感だな」
 ソーダとフェンネルは、真面目な顔で言いながらも、笑った。世界を救うために無理難題を要求した神に、怒りがないわけではない。だが、今こうして話していられる仲間と出会えたことに、感謝していないわけでもなかった。

 *

「あらあら、もう行ってしまうのですね」
 朝の墓場の前で、穏やかな微笑みを浮かべながら、アネモネは言った。
「急がなければならない旅ですし」
「いろいろとお世話になり、感謝しています。本当に、ありがとうございました」
 アネモネに見送られながら、白い花びらが風に舞う墓地を、四人はあとにする。やがて通りがかった村でも、ソーダが助けた村人たちが、四人を見送るように手を振っていた。
「もっと憎まれるものだと、思ってた」
 村を過ぎた辺りで、ソーダはもやもやとしていた疑問をぽつりと口にした。村人たちは、なぜ自分を憎まないのだろうか。彼らが人質としてさらわれたのは、勇者である自分が通りがかったせいだというのに。
「憎まれていないわけでもないだろう。ただ、それを上回るほどの気持ちで、世界を救ってほしいと期待し、願っているんじゃないのか」
「……期待、か」
 魔王の居城には、あと二日もあれば着くだろう。辿り着いたそこで、魔王を倒し、世界を救うことを、あの村の人々だけでなく、世界中の人々から期待され、願われ、信じられている。その事実は、重たい。
「怖くなったか?」
「……まさか。俺は絶対、魔王を倒す。誰も犠牲にせずにな」
「……そうか」
 硬い空気がソーダとフェンネルの間を流れ、しかし視線は一致している。魔王の城はこの道を真っ直ぐに歩いた先だ。
 世界を救う旅の、終着点が近づいていた。

 

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