四


 空に浮かんだ歯車が、カチリコチリと回る。金色に輝きながら、針を動かし、音を奏でる。オルゴールの音色は街中に染み込み、木の人形も鉄の人形も同じリズムで偽りの命を刻む。石とレンガとガラスと鉄と銀、それからわずかな金といくらかの木材が構成する通りを、白黒茶色、赤青緑、色とりどりのとんがり帽を被った人々が行き来する。時折響く爆発音、落ちる雷、上がる水柱、それらも全て、この魔法使いの里と呼ばれる街の日常であった。
「あの大きいの、落ちてきたりしないよね?」
「落ちるようなものが、街の上で堂々と回ってるわけないだろ」
「そ、それもそうだ、ね……」
 ソーダの言葉に一応は納得しつつも、魔法との関わりの薄いコーンはつい不安げに空の歯車を見てしまう。フェンネルも、見たことのないものばかりな街の中をきょろきょろと観察している。ソーダとアセロラも知識として知っていることは多いものの、実際に見るこの街並みには驚きを隠せなかった。浮かぶ歯車だけでなく、漂う色とりどりの雲や、中身のいない洋服の往来、この街には、不可思議な存在が溢れかえっている。
「あの歯車も、道端の人形も、全部魔法で動いているのか?」
 いくら魔法使いの里といえど、これほどのものなのかと、フェンネルは内心信じられない気持ちでいた。
「全部魔法だろうな、だからこそ、一日中動いてはいないはずだ」
「……? どういうこと?」
 コーンには、ソーダの意味するところがよくわからない。魔法なら、むしろずっと動いていそうな感じがする。
「魔法使いが全部魔法で動かしてるんだ、交代制でもない限り、ずっと動かしてるわけないだろ?」
「それに、ああいった魔法は引き継ぎが難しいので、交代制が成り立っていることなんてほとんどないですし」
 アセロラも補足するが、コーンは未だにきょとんとした顔をしている。魔法使いでない者同士、なにがわからないのかなんとなく察したフェンネルが代わりに尋ねた。
「ええっとだな……俺たちの中だと、ああいうのは一度魔法を使ったらずっと動いている、みたいなイメージがあったんだが……そもそも、それが違うのか?」
「あ、そういうことですか。私も、小さい頃は勘違いしてたんですけど、魔法が何かを起こせるのって、使ってる間だけなんですよね」
 やっぱり勘違いしますよね、と頷きながら、アセロラは答えた。ソーダも二人の疑問を理解したのか、先ほどよりも噛み砕いた説明をする。
「つまり、あの歯車も魔法を使ってるやつが突然倒れでもしたら、落下するわけだ。もっとも、そうならないためにああいう大規模なのは複数人で管理してるし、だからこそ引き継ぎが難しいんだがな」
「そ、そうだったんだ……全然知らなかったよ……」
 魔法使いにとっては常識的な事柄でも、一般に知られていないことはまだまだ多い。魔法そのものの研究は近年目覚ましい進歩を遂げ、この街に見られるような具体的な成果もあるが、一方でその普及はまだあまり進んでいないというのが現状であった。魔法を使うにはそれなりの素質がいること、道具がまだまだ高価なことなどがその原因として考えられている。
「あ、あともう一つ気になってるのがあるんだけど、あのやたら高い塔はなに?」
 コーンが指差す先には、他のどの建物よりも遥かに高い塔があった。真っ黒なその塔は、かなり高い位置に浮かんでいるはずの歯車たちを突き抜けて、天高く伸びている。街の中心部に位置していることもあり、おそらくはこの街で最も目立つ建造物だ。
「真理の塔と呼ばれている、この街を管理する建物だ。上の方では研究もやってるらしいが、下層はただの役場で、今向かってるのがそこだ」
「塔といい歯車といい、この街はやたら目立つものばかりだな……」
 もっと研究ばかりに特化した、殺風景な街、というのがフェンネルの抱いていたイメージだったが、実際の光景はかなり違った。しばらく眺めていても飽きない程、街の中は奇怪なもので溢れている。
「魔法は金が掛かるんだ。だから、観光名所化してがっつり稼いでその金で研究を、っていう魂胆があったらしいんだが、広報が下手すぎてな、魔法使い以外は滅多に来ないらしい」
「確かに、魔法使いっぽい人しか見かけないね」
「あ、でも向こうにそうじゃないっぽい方も一人いますね。ローブを羽織ってないですし、帽子も被っていなくて、ずいぶんと軽装ですね」
アセロラが示した先では、短パンに薄手のシャツという、この街ではかなり珍しい身軽な格好をした少女が通りを歩いていた。高めの位置で結われた一つ結びの紫色の髪が、歯車からの風でゆらゆらと揺れている。ふと、辺りを見回したその少女は、四人の方を向いた。丸っこい彼女の瞳と、ソーダの目が合う。ぱちくり、と瞬きした途端、彼女は突然走りだし、どこかへ去って行ってしまった。
「あれ、どうしたんだろう……」
「もしかして、先輩の知り合いとかですか?」
「いや、あんな知り合いは……」
 言いかけて、ソーダは一人思い当たる人物がいることに気づいた。あのとき自分から杖と剣を奪い、落とし穴に落とした盗人、その顔はわからないが、声は少女のものだった。もしかしたら、彼女が。そう思いはしたが、あれは恥ずかしくて絶対に話したくない記憶だ。口には出さず、そのまま飲み込む。
「……いないな、全く見覚えがない」
「うーん、どうしたんでしょうか……」
 アセロラは不思議がっているが、ソーダとしては早く切り上げてしまいたい話題だ。真理の塔への道を急ごうとする。
「偶然じゃないのか? それか、俺に一目惚れして恥ずかしくなったとか? まぁ、とにかくさっさと真理の塔に行こう」
「一目惚れはないでしょう。でも、そうですね、あまり気にしても仕方がないですし」
 一行は再び、奇怪な通りを目的地に向かって歩き出した。だが、その正面に今度は、灰色のボロボロなローブを着た男が立ちふさがった。目深に被った灰色の帽子もかなりよれよれだ。
「勇者に選ばれたんだろ! なぜ俺を誘ってくれなか、げふっ」
 いきなり話しかけてきた男の顔面に、ソーダの拳が突き刺さった。その勢いで帽子が脱げる。ソーダの動きが珍しく機敏だ。だが、殴られたその男の動きもなかなかに鈍い。
「今さらなんのつもりだクソ師匠」
 男の胸倉を掴みながら、眉間にしわを寄せ、険しい表情でソーダは言った。四、五十代ほどに見えるその男を、睨みつけるソーダの瞳には、かなり怒りがこもっているように見える。
「ええっ、ソーダ君の師匠なの?」
「そうとも、この俺様こそが、未来の勇者を育てた大魔法使い、クリーム様だ!」
「俺の活躍の場はここじゃないとかなんとか言って、ある日突然どっかに行った身勝手でどうしようもない駄目人間の癖に偉そうにするんじゃねぇ!」
「い、痛い、痛っ、足を踏むな、ソーダー!」
 げしげしと、ソーダは容赦なく男の足を踏んだ。無精髭をだらしなく生やした男は痛みに喚く。その様子を見ながら、なにか思い出したようにアセロラはつぶやいた。
「あ、あの人ですか。奥さんにも妹さんにもさんざん迷惑をかけておきながら、なにも言わずにどこかに行った、私たちの町で最低の旦那ナンバー1として名高いクリームさん」
「げ、俺の評判ってそんなことなって、って痛てえええ!」
 足を踏まれ続ける男クリームを、初対面であるはずのフェンネルとコーンも、助けようとはしなかった。アセロラからですら、この言われようである。本当に駄目人間なのだろう。ぼさぼさの髪からも、しわだらけのローブからも、駄目人間のオーラが溢れている。
「……よくわからんが、よほど酷い奴なのか、こいつ」
「適当な研究所に放り込んで爆発に巻き込みたいぐらいには酷い奴だ」
「いや、冗談でもやめような? そんなことしたら死んじゃうよ? っていうか君らも見てないで助けてくれええ!」
 さすがに時間がもったいないと思ったフェンネルと、いくらなんでも可哀想だと思ったコーンが動いたのは、それからもうしばらくしてからのことだった。

 *

 くるくるくるくる、天井で、妖精の羽のような半透明のファンが回っている屋内。コーヒーの香りや果物の香りが入り混じった中、人々は談笑している。入り口の側では、丸まった白猫があくびをした。
「それでこの街に来たってわけか。生憎俺は、そんな研究してねぇなぁ……」
「元から期待なんかしてない、脳なしぽんこつ師匠」
「お、おごってやってるんだからいちいち罵るな! っていうか師匠なんだし敬語使えよ!」
 四人とクリームは、通りにあった小さな喫茶店で会話している。オルゴールの音色がゆっくりと奏でられている、落ち着いた雰囲気の店内だが、メニューは少々お高い。師匠なのだし当然ですよね、という脅しに負け、代金は全てクリームが払った。
「やはり情報は無しか。しかし、こんな人間がソーダの魔法の師匠とは……」
 いまいち納得がいかないといった顔で、フェンネルはコーヒーの入ったカップを口へ運ぶ。砂糖もミルクも入っていない、真っ黒なコーヒーだ。
「あ、勘違いするなよ、俺がこのクズ師匠から学んだのは七歳のときまでだ。以来一度も会ってない」
「なるほど」
「いやいや、それまでに教えた基礎が大切だっていつも言ってただろ!」
 クリームの言葉を無視して、ソーダは残りのココアを飲み干した。こんな師匠にいつまでも付き合っていられないという気持ちを込めながら、空のカップをテーブルに置く。
「あと、そんな研究してないとは言ったが、してるやつを知らないとは言ってない! してそうな雰囲気のある知り合いぐらいならいてだな、例えば俺をパーティーに加えてくれるなら」
「冗談は顔だけにしろ」
「いやいやいや、顔は普通だろ! むしろイケメンだから! ダンディーだろ!」
 得意げに提案したクリームを、ソーダは一蹴した。他の三人も、呆れたような目をしている。フェンネルとアセロラは、残っていたコーヒーとホットミルクをそれぞれ飲み干しテーブルに置いた。コーンも慌ててオレンジジュースを飲み干す。
「ごちそうさまでした」
「さて、真理の塔に行くか」
「時間の無駄でしたね」
 四人は席を立ち、そそくさと店を出てしまった。クリームの前には、空のカップだけが残っている。
「いや、話ぐらい聞けよ!」
 同じタイミングで悲しい曲に切り替わったオルゴールの音色が、立ち尽くすクリームを包んだ。
「オルゴールまで空気読まなくていいから!」

 *

「そのような研究の報告は、一件もないですね」
 高々とそびえる真っ黒な建造物、その一階に位置する円形の広間。この街の役所としての機能を一手に担うこの部屋で、ソーダたちは事務員の報告を聞いていた。大きく重い扉を開いて入った先で、人もまばらなカウンターに向かい、目的の研究があるかどうかを尋ねたのは一時間ほど前のこと。しばらく待つように言われた四人は、この出入り口以外の全ての壁を覆う本棚に収められた大量の本を読み漁っていた。数時間いても退屈しなさそうなほど珍しい本に溢れていたが、ほどなくして呼び出され、今に至る。
「似たような報告も、ですか?」
「そうですね、一切ありません」
 フェンネルの問いかけにも、芳しい答えは返ってこなかった。照明の多い明るい部屋だが、四人の間に漂う空気は重たい。
「よろしければ、今後の研究題目決定の参考として伝えておきますが」
 ずれた眼鏡を直しながら事務員の女性が提案したが、重い空気は変わらない。今すぐ研究を始めたとしても、実用的な段階に至るまでにいったいどれほどの時間がかかるだろうか。魔王が復活してから、すでに二週間以上が経っている。世界が滅ぶまでに、残された時間はそう長くない。
「ありがたいですが、遠慮させていただきます」
 やんわりと断り、カウンターから離れた。ここは魔法使いの里、魔法の研究に特化した街だ。そんな街で、魔法の研究について、雑な管理が行われているはずがない。その役所で見つからないということは、つまり。
「結局無駄足だったな。やっぱりあるわけないんだよ、こんな不可能を可能にする方法」
「……」
 もともと、可能性はゼロに近かった。魔法のための機構をもたない剣で、魔法を使う方法。一切道具を使わないでの方法は、そもそも考えられない。人間の限界を超えない限り無理だと言われている。何か道具を使うのであれば、需要がない。普通役に立たないそれを、誰が研究するというのか。
 予想通りの答えだったが、四人を包む空気は、息が詰まりそうなほどに重い。
「で、でも、もしかしたら、こっそり研究してる人がいるかもしれないし!」
「そうですよ、先輩、諦めないで、もっと、街中を探してみないと……!」
 コーンもアセロラも、この空気を変えようと必死だった。まだ諦めたくない、諦めさせたくない。だが、二人の真剣な言葉にも、ソーダは聞く耳を持たなかった。
「いい加減諦めろよ! 無理なものは無理なんだ、天地がひっくり返りでもしない限り変わらない! だから、そうやって夢ばかり、希望ばかり……!」
 畳みかけるように、ソーダは叫んだ。叫んで、踵を返して、扉に向かった。黒い扉を掴み、大きく開け放つ。そのまま塔を飛び出し、逃げ出すように走って行ってしまった。
「ソーダ君!」
 慌てて追いかけようとしたコーンを、肩を掴んでフェンネルが止めた。コーンは思わず叫ぶ。
「どうしてっ……!」
 フェンネルは俯き、黙っていた。コーンとアセロラも声を発せず、沈黙が降りる。ややあって、フェンネルはようやく口を開いた。
「俺は……いや、ここで話すようなことじゃないな、先に外に出よう」

 *

 歯車の隙間から漏れる日差しが二人を照らす。コーンと二人で話したい、フェンネルがそう言うと、アセロラは一人ソーダを探しに向かった。街の片隅、忘れられたような小さな公園で、フェンネルは俯いたまま、ゆっくりと言葉を吐き出す。
「俺は、自分がやってきたことが、これからやろうとしていることが、正しいのかどうか、わからなくなってきた」
 零れる声は、いつもよりも遥かに、弱々しいものだった。彼の瞳は、地面の草ばかり見ている。
「この中で、俺が一番年上だろ? それにソーダとアセロラはまだ未成年だ。大人として、やるべきことを果たそうと、言うべきことを言おうと、俺なりにずっと考えていた。だが……結局全部、俺の勝手だったのかもしれない。わからなくなって、迷って……大人失格だな」
 俯いていた顔を上げ、へらり、とフェンネルは笑った。日差しの大半は、浮かぶ歯車に遮られているはずだというのに、目に届く光は嫌になるほど眩しい。
「俺だって、あいつの辛さ、わかってるつもりで、けど、それでも理不尽なのが現実だろ。だったら、立ち向かわせるのが、大人の役目で、でも、俺は……」
太陽が眩しいからか、他の理由からか、フェンネルは手のひらで目元を覆った。そんなフェンネルを、コーンは真っ直ぐに見つめた。
「迷いそうになる子どもに、道を教える。そのあとは、選んだ道を貫けるように、難し過ぎるところは支えてあげる。そういうのが、大人の役目だと、僕は思う。今のフェンネル君は、大人失格だよ」
「……」
 フェンネルは、コーンと目を合わせられずにいる。それでもコーンはじっとフェンネルを見ていた。もやのように漂う伝えたいことを、一つずつ掴み、言葉にしていく。
「でも、常に大人でいる必要なんて、ないんじゃないのかな。少なくとも、フェンネル君は、ソーダ君の前で大人でいれば、それで、いいと思う」
「……そう、だろうか」
 不安そうな声を出すフェンネルに、コーンはゆっくりと言葉を伝える。
「本当は、もっと時間をかけて、たくさん考えなきゃならないことなのかもしれない。けど今は、時間がなくて、この限られた時間で出せる一番の答えは、そんなところなのかな、って僕は思って。僕の方が年下だけど、一応これでも大人なんだし、少しは、信じてくれないかな?」
 コーンの前で、フェンネルはようやく顔から手を離した。
「そういえば、そうだったな。子どもより子どもらしいから、すっかり忘れていた」
「ええっ、酷いなー」
 わかりやすく表情が変わるコーンの前で、フェンネルは少しだけ笑った。
「だが、今だけは……俺の方が、子どもかもしれん」
「……今はそれで、いいと思うよ」
 フェンネルの瞳の端で、一滴、何かが光っていた。

 *

 にぎやかな建物に囲まれた通りを、一人歩いていたソーダは、ふと立ち止まり空を見上げた。先程まで憎らしいほどに晴れていた空は嘘だというかのように、どんよりとした雲が歯車の隙間から見える。雨が降る間、あの歯車はどうするのだろうか。一旦しまうのか、しまわなくても問題ないのか、はたまた錆びついても気にしない方針なのか。錆びを気にしない方針だとしてもなんの問題もない、どのみち世界はもうすぐ滅びるのだから。ソーダは思った。自分がこうして逃げている限り、滅亡の未来は変わらない。だが、立ち向かったところでなにが変わるのだろうか。昔から、できないことだらけだった。今だって、きっと。
「できると信じたところで、虚しいだけだ」
「それはどうかしら」
 突然話しかけてきた声に、ソーダは驚きびくりと肩を跳ねさせた。独り言のつもりで漏らした言葉だったが、普通に聞こえていたというのか。
「あ、驚かせちゃってごめんね。私ってばうさぎ耳だから、悩める少年のつぶやきが聞こえちゃったら、つい反応しちゃうのー」
 やたらと高いテンションでソーダに話しかけて来たのは、色とりどりの汚れに染まり、白衣とは呼び難い色になった白衣を羽織った女性だった。白衣の下の服装も、三十代ほどと思われる年齢に見合わない派手さに溢れ、ピンク色の髪も相まって、とてもにぎやかな見た目である。
「……そうですか、では」
 正直なところついていけないそのテンションから、早く離れたいと思ったソーダは、足早にその場を去ろうとする。だが、そうはさせぬと女性はソーダの肩をがしっと掴んだ。
「せっかく出会ったんだから、これも何かの縁、少年の悩みを、お姉さんが解決してあげよう!」
 肩を掴んでいた右手ではなく、今度は左手でソーダの手首をしっかり握った女性は、そのままずるずると引っ張っていく。見た目以上に強い力を発揮する女性に、ソーダはただただ引きずられるばかりだった。
「できる、って信じることなら、私の専門分野なのよ。なんてったって私は、不可能を可能にする女、カモミールだもの」
「可能にできる不可能なんか、不可能じゃない」
「そう? なら、あなたの思っている不可能も、不可能じゃないのかもしれないわね。例えばさ」
 女性はいつの間にか、左手に細長い筒状の何かを持っていた。その何かを、左手だけで器用に動かし、折りたたまれていたらしい状態からてきぱきと開いていく。十秒ほどのうちにすっかり変形したそれは、十分な大きさの傘の形をとり、ぽつりと歯車の隙間から降ってきた雫を弾いた。。
「傘をこんなにコンパクトにできるだなんて、誰も思わなかったでしょう? それこそ、不可能、って。でも私、発明しちゃった。可能にしちゃったの。あなたの言うところに沿えば、もともと不可能じゃなかったのかもね。だけどさ、もしそうだとしたら、あなたの抱えていることだって、不可能に見えているだけで、本当は可能かもしれない」
 ぱらぱらと降り注ぐ雨を、透明な傘が弾く。その下で、カモミールはにこりと笑った。ソーダには、その笑顔が腹立たしく見える。けれども、自身をしっかりと掴むその手を、なぜだか振りほどこうとも思えなかった。
「……そんな不可能と、一緒にしないでください」
「この傘、私の自信作なんだけどなぁ。まぁ、話は私の研究所で、じっくり聞かせてもらおう。私の研究を見たら、話したくなること請け合いだから!」
 ソーダがいくら睨みつけようとも、カモミールは笑ったままだった。雨脚は強まり、ざあざあと音を立てながら、ソーダの服の端を濡らす。雨どいを持たない歯車からは、あちらこちらから水が垂れ、小さな滝をいくつも作っていた。滝の下には水たまりができ、歩くたびに靴が濡れる。ぽちゃり、ぽちゃり、びちゃびちゃと、しかしその音は、どこか楽しげなリズムで刻まれていた。傘を揺らしながら愉快に歩くカモミールに、とうとうソーダはそのままついて行ってしまった。

 *

「ど、どうしよう……」
 薄暗い部屋の中、アセロラは困っていた。ソーダを探している途中、ぽつぽつと降りだしたかと思えばそのまま激しくなった雨から、アセロラは逃げるように手近な建物の軒下に飛び込んだ。雨はいつ止むだろうか、ため息をつきながら建物の壁に寄り掛かったのが間違いだったのだろう。壁だと思っていたそれは、アセロラとともにくるりと回り、雨に濡れる街並みは目の前から消えてしまった。
「やっぱり、動かない……」
 アセロラは、自身が通って来たはずの回転扉と思わしき壁に触れるが、いくら押しても、どこを押しても、壁はびくともしない。入った時には、なにか別のスイッチにでも触れてしまっていたのかもしれない。杖の先に灯した灯りで、アセロラは扉やその周囲を照らした。だが、それらしきものはなにも見当たらない。スイッチがあるのだとしても、一方通行の可能性が高そうだ。
「これって、不法侵入になるのかな……見つからないうちに出たいけど、でも……」
 大量の木箱が置かれたこの部屋には、回転扉と思われる壁の他に、もう一つドアがあった。窓がない以上、回転扉が開かないのであれば、そのドアを開けない限り外にはでられない。ドアにそっと近づき、しかしアセロラはそのドアを開けることを躊躇ってもいた。この建物の外観をアセロラは詳しく思い出せないが、このような隠し扉があるぐらいだ、ただの民家とは思い難い。この建物もまた、街のあちらこちらにある研究所の一つなのかもしれない。もしそうだとすると、ドアを開けた先が何か危険な状態になっていたとしてもなんら不思議ではない。外で見かけた爆発や稲妻が、アセロラの脳裏をよぎった。
「でも……行くしか、ないよね」
 それでも仕方がないと、脳内の光景をかき消し、アセロラはドアに手を掛けた。金のドアノブは冷たく、触れるとひんやりする。それをしっかりと握りしめ、奥に向かって扉を開いた。
「……」
 アセロラは絶句した。彼女の眼前にあるのは、一言でいえばとにかく汚い部屋だった。脱ぎ捨てられたような服の山があちらこちらにあり、テーブルの上には食べ終わった後の食器が放置されている。複数ある本棚には平積みで置かれた状態の本も多く、とても整理して並べているようには見えない。そして、床の上にはそこかしこに奇妙な道具や杖が転がっており、アセロラが開けたドアと、部屋の中央のテーブル、そして反対側にあるもう一つのドアを結ぶ導線を除いて、足の踏み場のない有様であった。床はほぼ見えない。
「なにこれ……」
 いくらなんでもこの散らかりようは酷過ぎる。そう思いつつも、アセロラは現在、故意ではないとはいえ不法侵入中の身である。人の気配はなく、聞こえるのは外の雨音だけだが、油断はできない。できるだけ音を立てないように、なにも動かさないように、反対側のドアを目指して、僅かな隙間を慎重に歩いた。一歩ずつ、多少時間をかけてでも、床以外に触れないよう細心の注意を払う。特に、杖や未知の道具に下手に触れてはなにが起こるかわからない。テーブルの脇を通り、小さな服の山を越えて、ドアまであと少し。あと一歩、その時、アセロラの足首になにか柔らかいものが触れた。
「……んにゃ?」
「……」
 服の山から顔と脚だけ覗かせた黒猫と、アセロラの目が合う。黒猫は微動だにしないアセロラの顔をしばらくまじまじと見つめていたが、やがてごそごそと積み重なった服から這い出し、アセロラが開けようとしていたドアの隣にちょこんと座った。
(開けても、大丈夫、かな……)
 猫の意図するところがアセロラにはわからないが、このままじっとしているわけにもいかない。もう一歩を踏み出し、そっとドアノブを掴む。入って来たドアと同じの金のドアノブを回し、ドアを手前に向かって引いた。
「にゃあ」
 再び鳴いたかと思うと、猫はそのまますたすたと歩いて行ってしまった。開けた扉の先をそっとアセロラが覗くと、そこには薄暗い廊下が続いている。大きな窓もあり、そこから抜け出すことができるかもしれない。外は相変わらずの大雨だが、仕方がない。一歩二歩と廊下へ踏み出し、開けたドアをそっと閉じた。猫の姿はすでに見えない。開いているドアの先にでも入ってしまったのだろう。猫のことはひとまず頭の片隅に寄せておいて、アセロラは窓に近づこうとした。
「……!」
 窓の方へと踏み出す前に、アセロラの足は止まった。ガタン、ギーィッ、ガタッ、という音が聞こえ、人の話し声も僅かだが聞こえる。アセロラが入って来た方角だ。おそらくこの家の主が帰って来たのだろう。急がなければ。アセロラは窓を見回して鍵を探したが、それらしきものはない。鍵を掛けられないタイプなのだろうか、そうだとしたら不用心な窓だと思いつつも、アセロラは横開きの窓に手をかけ、開こうとした。力を込めるとガタガタと揺れる。だが、開きそうにはない。錆びついているようだ。
「……があって、廊下の……ングがあるから……」
 そうこうするうちに、声の主が歩きだしたようだ。二人分の足音が聞こえる。話し声は女性の声だけだが、もう一人の声が小さいのか、一方的に話しているだけなのか。詳しいことはわからないが、近づいてきていることは確かだ。アセロラはガタガタと揺らしていた窓を諦め、隣の窓に手をかける。思いっきり引っ張ると、今度は五ミリほど開いたが、そこで止まってしまう。揺れるばかりで、それ以上は動こうとしない。足音は聞こえなくなっており、どうやら隣の部屋で立ち止まっているようだが、いつ廊下まで出てくるかわからない。それだけでなく、このまま窓を開けようとしていれば、そろそろ音に気付かれるだろう。ひとまずどこかに隠れなければ。そう思ったアセロラは、廊下を見渡した。だが、先程までいた部屋と打って変わって、物がほとんど置かれていない廊下に隠れられそうな場所はない。扉はほとんど全てが閉まっており、開いているのは猫が入って行った部屋のドアだけだ。鍵が掛かっていては困る、できるだけ音は立てたくない。アセロラは咄嗟に、開いているドアの向こうに足を踏み入れた。
 ドアの向こうの部屋は、廊下と比べると暗いが、奥にある小さな窓のおかげで真っ暗ではない。流し台や食器棚のあるそこは、どうやら台所のようだ。部屋の隅にある扉の手前で、黒猫はなにかをむしゃむしゃと食べている。アセロラは、入って来たドアを閉め、二つある食器棚の隙間に隠れることにした。入ってこられたらすぐに見つかってしまいそうではあるが、他に隠れられそうなところもない。隅の扉を開けたとしても、位置としては台所の隣の部屋に通じているだけだろうと思われる。台所と直接繋がっているのだとしたら、リビングか何かだろうか。先程の会話でそのような単語が聞こえたような気もする。そうだとしたら、あまり入りたくはない部屋だ。
 アセロラがそのまま食器棚の間でじっと息をひそめていると、やがて近くでドアが開く音がした。この部屋のドアではない。二人分の足音が部屋の中へ入って行き、バタンと音を立ててドアが閉まった。
「さて、お菓子はテーブルの上に置いてるから、好きなのを食べるといいわ。飲み物の用意は面倒だからなしね」
「無理やり連れてきておいて酷いですね」
「いいじゃない、私は別に、ただ励まそうとしてるわけじゃないもの」
 どうやら隣の部屋は本当にリビングだったようだが、アセロラにとってはそれどころではない。
(い、今の声、先輩……なんでここに)
 ようやく聞こえた、もう一人の声、それは確かに、アセロラがよく知る一つ上の先輩の声だった。
「それより、そろそろ本題に移りましょう? あなたが抱える不可能って、いったいどんなことかしら」
「……話すだけ時間の無駄です、早く帰らせてください」
「じゃあ、質問を変えましょう。あなたが今、目指していることは何?」
 女性は、ふわりとした声音でソーダに問い掛ける。この女性は、いったい何者なのだろうか。会話から読み取ろうと、アセロラは隣の部屋の声に意識を集中させた。
「……」
「あなたは何かを、不可能だと思っている。できると信じたくない。できないことだから。けれど、完全には諦め切れてもいない。諦めるわけにはいかない、なにか大きな理由がある。例えば、何かを、誰かを守るためだとか」
「……うるさい」
「図星かしら? 守りたいのでしょう? 本当にあなたが、それを不可能だと思っているのなら、なりふり構っている限り、守れないんじゃないの? とにかく聞いて、可能にする方法を探すしかないんじゃないの?」
「うるさい!」
 ソーダの声は、台所まで響いた。数秒の間、言葉が途切れ、雨音がやけに大きく聞こえた。
「……だったらあんたは、改造もしていないただの剣で、魔法が使えるようになると本気で思うのか!」
「思うわ」
「ありえない!」
 叩きつけるように叫ぶと、ソーダは立ち上がった。
「待ってください、先輩!」
「……!」
 アセロラは、思わず叫んでしまった。するりと言葉が飛び出し、慌てて手で口を押さえた時には、すでに声は隣の部屋まで届いてしまっていた。やってしまった。体育座りで隠れたまま、アセロラは頭の中が真っ白になる。
「あら、出てきていいのよ。うちの鍵、うっかり開けっぱなしだったから、何かのはずみで入っちゃったんでしょ?」
 台所に向かってかけられた、女性の声は落ち着いていた。アセロラが隠れていたことに、初めから気付いていたかのようだ。アセロラは、脳内でパニックを起こしながらも、震えながら立ち上がり、女性の言葉に従って、ドアをそっと開いた。小さく開いたドアの先には、ソファーに座ってにこにこと笑っている虹色白衣の女性と、立ち上がったものの突然の声に驚き硬直したままのソーダがいる。
「怖がらなくていいのよ、別に取って食おうってわけじゃないんだから。あなた、わざと忍び込んだ、って感じには見えないし」
 白衣の女性、カモミールは、笑顔のままそう言うと、アセロラに近くのソファーに座るよう促した。恐る恐る近づき、アセロラはちょこんと座る。ソーダもそれにつられてか、再びソファーに座ってしまった。
「あなたたち、知り合い?」
「は、はい……」
 カモミールは尋ねながら、テーブルの上にいくつも並んでいる皿のクッキーやスコーンをアセロラに勧めた。背筋がピンと張るほど緊張しているアセロラは、ひとまずぺこぺこと頭を下げるばかりでそれらに手を伸ばすどころではないが、カモミールもそれを気にしてはいないようだ。
「珍しいこともあるものね、これも運命かしら。それより、さっきの話の続きだけど……」
 カモミールは立ち上がり、リビングの隅に積まれた木箱の山をがさごそと漁った。やがて、目当てのものを見つけたのか、テーブルに戻ってくる。その手の中には、何かを握っているようだった。
「こういうものがあるの。私が発明した、連携式無差別魔法使用リング、愛称はなんでも魔法使えるくんだから、略して、でも魔くん、って呼んでね」
 テーブルの上に置かれたそれは、一見何の変哲もなさそうな、銀の指輪だった。だが、よく見るとその隅々に、細かくなにかが彫ってあるのがわかる。文字のようにも見えるが、ソーダもアセロラも知らない言語だ。
「これを使えば、さっき言ってたみたいな、ただの剣で魔法を使う、なんていう無茶苦茶なことも、可能になっちゃうの」
「そ、そんなことが、本当に……」
「なぜこんな研究を?」
 どうすればそんなことができるのだろうかと真剣に指輪を見つめるアセロラの隣で、ソーダはカモミールに疑いの目を向けた。彼女が初めに見せた、あの折り畳める傘は、発明する意味があった。この部屋に来る途中で彼女が見せてきたものにだって、発明するだけの理由があった。だが、この指輪は違う。自分以外の人間が、このような道具を求めるだろうか? ただの好奇心、何かの副産物、そういった可能性も完全には否定しきれず、フェンネルもそもそもそのつもりで提案していたが、果たして彼女はそうなのだろうか。
「なぜって、あったら便利じゃない? 手元に杖がない時とかにね」
「そんな状況を想定するなら、指輪に機構を備えれば済む話だ。わざわざ別の道具を使う必要性がない」
 魔法を使う際に、その道具が何であるかはあまり重要でない。人間の持つ生命力と、空気中に漂う魔力、その二つを、機構の力を借りて一体化させ、エネルギーを発生させれば魔法は発動する。そのため、機構そのものが魔法に影響を与えることはあるものの、機構が組み込まれている道具は、一体化を行うための「場所」でしかなく、普通は魔法の発動と関係していない。杖に機構を備えようと、指輪に機構を備えようと、備えた機構が同じならば違いはないのだ。伝説の剣の持つ特殊な力を魔法に加える必要のあるソーダのケースは、例外中の例外だ。
「うーん、そう言われてみればそうかもね、気付かなかったわー」
 カモミールは、少しだけ困ったように眉を下げ、すぐに誤魔化すように笑った。
「はぐらかさないでください……あんたは一体何者だ!」
 ソーダは再び立ち上がり、水色の宝石が輝く杖の先端をカモミールに向けた。
「お、落ち着いてください、先輩!」
 アセロラはソーダを止めようと慌てているが、杖を向けられているカモミールは相変わらずにこにこと笑っており、少しも焦っているようには見えない。
「ふふ、そう、残念ね。偶然と思ってくれた方が、プレッシャーを感じることなく受け取ってもらえるかと思っていたのだけれど、まぁ、それは無理か……方向性を変えましょうか、勇者ソーダ君?」
 その瞬間、ソーダの杖の先端が輝き、溢れるように飛び出した氷の粒が旋回を始めた。それでもなお、カモミールは顔色一つ変えない。
「なぜ俺の名前を知っている!」
 冷気を振りまきながら旋回する氷の粒は、その勢いを徐々に強めていく。軽く触れただけでも凍りついてしまいそうだ。ソーダはそれをカモミールに向けたまま、彼女を睨みつけた。
「それは、そのババアが悪魔みたいな情報網を持ってるからだ」
 突如聞こえた馴染みのある声に、ソーダは思わず背後に目を向けた。いつの間にか開いていたドアの先には、喫茶店で別れた師匠クリームが、なぜかフェンネルとコーンと共に立っている。そしてその僅かなうちに、ソーダの杖の先で渦巻いていた小さな吹雪はすっかり消えてしまっていた。ソーダは慌ててカモミールの方に視線を戻したが、彼女はにこにことした笑顔のまま、ソーダの杖の前に左手をかざしているだけである。その手首からわずかに見える腕輪が、杖代わりなのかもしれない。だが、これほどの早さで魔法を遮られたのは初めてのことだ。ソーダはぞっとした。
「ババアだなんて、このぴっちぴちのお姉さんに対して酷い言い草ね。不法侵入までしてるし」
「ババアなのは事実だろ、六十代のくせに。それに、てめぇだっていつも俺の家に勝手に入ってくるじゃねぇか!」
 クリームはリビングの中へずかずかと踏み入り、テーブルの上のクッキーをつまんだ。それを見て、カモミールはやや怒ったような表情も見せたが、ソーダたちに対しては相変わらずにこにことした雰囲気を纏っている。ソーダはそれ以上杖を向けていられなくなり、ゆっくりと降ろした。
「それより、今日は何の用?」
「いや、それがな、お前だったら剣を使って魔法を使うなんていう妙な方法も研究してるんじゃねぇかなーと思ってきたわけだが……この分だと、先にその話してたみたいだな」
 わざわざ連れて来てやったのに、とぼやきながら、クリームはぼりぼりとクッキーを食べる。フェンネルとコーンは、部屋の入り口に立ったまま、困ったような顔をしていた。
「でも、ちょうどいいわ。そこにいるあなたたち、ソーダ君の仲間でしょ? せっかくだから一緒に説明してあげるわ。クリームは紅茶の準備をしなさい」
「なんで俺が……」
「不法侵入の罰よ。警察に突き出されないだけ、マシだと思えばいいじゃないの」
「クソババアめ……」
 ぶつぶつと文句を言いながらも、クリームは台所に向かった。呆然としながら、ソーダたちはそれを見送る。
「さて、あなたたちも好きなところに座るといいわ。お茶の準備ができたら、初めから説明してあげるわね」

 *

 砂糖をどぼどぼと投入した紅茶のカップをソーサーに戻しながら、カモミールは五人を見渡した。彼女の説明とクリームの話で、ソーダの疑いの目もややほどけてきている。
「つまり、まとめてしまうと、勇者や魔王についての情報を集めていた私は、ソーダ君の状況を知って、この指輪の開発を始めたの。方法自体はすぐに浮かんだし、あとは実際に作って、使ってもらえばいい。ただ、わざわざ作ったってことがプレッシャーになったらよくないんじゃないかと思って、偶然作ったってことにするつもりだったの。バレちゃったけどね」
「プレッシャー……不審に思われるリスクに勝るほど、気にするものでもないと思いますが……」
 浮かんだ疑問を、フェンネルは口にした。
「そうね、そうかもしれないんだけど……それでも私は、偶然降って来たチャンスと思ってもらった方が、まだ成功させやすいんじゃないかと思ったの」
「……まるで、その指輪を使っても、うまくいく確率は低いと言っているように聞こえるのですが」
「ふふ、ここまでのお話はあくまであらすじ、本題はこれからなの」
 そう言うと、カモミールはテーブルの上の指輪を手に取った。銀でできたその指輪には、隅々まで文字のような模様が彫ってある。その模様は、カモミールが指輪に魔力と生命力を流し込むと、ぼんやりと光った。
「この指輪には、隣接するものに対して魔法発動用の機構を仮設する、という魔法を使うためだけの機構があるの。他の魔法を一切使えない代わりに、その魔法を使うためだけに特化したことで、必要な集中力を極限まで抑えたわ。ただ、いくら抑えたと言っても、二つの道具で二つの魔法を同時に使うことに変わりはないから、私はまだ一度も成功していないけどね」
「え、えっと、つまり……」
「……無理だ」
 必死に理解しようと頭の中を整理するアセロラの隣で、ソーダはつぶやいた。馬鹿馬鹿しい、そんな気持ちが言外に聞こえる。
「二つの道具で二つの魔法を同時に使用する、なんてことを誰もしようとしないのは、必要な集中力が一つの魔法を使うときの二倍や三倍じゃ済まないからだ。十倍、二十倍、場合によっては百倍もの集中力が必要と言われている。できるわけがない」
「だからこそ、この指輪でそれを限界まで抑えたの。私にはそれでも無理だったけれど、研究が専門の私は、実戦においては単に魔法の無効化に特化しただけの魔法使い、さっきあなたの魔法を消したのだって、別に私の方が強いとかじゃなくて、ただそういうのだけに特化していたからなの。集中力とかは、あなたの方がおそらく上だわ」
 光の収まった指輪を、カモミールはソーダに差し出す。
「守りたいものがあるんでしょう? だったら、不可能と決め付けたりなんかしないで、まずは可能性を信じるべきだわ」
 優しい微笑みで差し出された指輪を、しかしソーダが受け取ることはなかった。
「できないことにすがったって、そんなの虚しいだけだ」
 俯いたソーダの青い瞳が、ゆらりと揺れる。
「できるかどうかは、やってみなければわからないわ」
「……それで、できなかったとしたら、なら、どうすればいい? 誰もそれを笑えない、怒ることも、泣くこともできなくなって……守ると宣言しておきながら、できなかったとき、俺は、どうすればいいんだよ!」
 涙が混じったような声で、ソーダは叫んだ。ソファーから立ち上がり、部屋を出て行く。
「そ、ソーダ君!」
「俺に行かせてください」
 慌てて立ち上がろうとしたコーンを手で制し、フェンネルは席を立った。役所からソーダが飛び出した時よりも、その声は落ち着いている。
「説得できる自信はあるの?」
「なにがなんでも立ち向かわせます」
「……そう。なら、任せるわ」
 カモミールは、にこりと笑った。

 *

 フェンネルがソーダを見つけたのは、この家の中庭だった。降り続く雨も気にせずに、隅の方に座り込んでいる。外に出なかったのは、このやたらと複雑な家の出口がわからなかったからだろうか。
「お前は本当に、逃げる癖がついているな」
「……」
「逃げたところで、何も変わらない。お前だってわかってるだろ」
 傘は持っていないが、フェンネルも雨は無視してソーダに近づいた。ソーダはすでに全身びしょ濡れだ。目元もぐしゃぐしゃに濡れており、雨だか涙だか区別がつかない。
「……逃げてなにが悪い」
「必ずしも悪いとは言わない。だが、いつまでも逃げ続ければ、なにも改善しない、その可能性すら生まれない、だから悪い」
「その可能性が、極端に低かったとしてもか」
「そうだな」
 二人の間に、沈黙が降りた。雨の音ばかりが、うるさいほどに響く。やがて、その音に紛れながら、ソーダはぽつりと漏らした。
「できるやつばかりじゃないんだ」
「……当たり前だ」
「どれだけがんばっても、他の奴らからしたらあり得ないぐらいにできないやつもいる」
「そうだろうな」
「できないことだらけだったんだよ」
「だから魔法に逃げ続けた、ってわけか」
「……」
 ソーダは再び黙りこくった。青い瞳には、雨ばかりが映る。
「そのくせ、自分は天才だ、とか言って、偉そうにしていたな」
「……」
「できないことを、できると宣言して、結局なにもできない。今の状況と、何が違う」
「……なにもかもが違う」
「具体的には?」
「……」
 フェンネルは、黒い瞳でソーダの目を真っ直ぐに見つめていた。濡れた重みで垂れ下がった前髪が目にかかるのを、まとめて払いのける。
「……誰も、笑わない」
「笑えるようなことじゃないな」
「……笑われて、馬鹿にされたら、できないことも許された気がする」
「結局のところ、それも逃避だ」
「逃げたっていいだろ! できるやつには、わからないさ!」
「わからないな、お前がそれを言わない限り」
 ソーダが声を荒げようと、フェンネルは真っ直ぐに見つめ続けた。雨ばかり映す青い瞳を、黒い瞳で捕らえようとする。
「……俺は辛い、俺は逃げたい」
 雨の中に、気持ちが一つずつ、零れ落ちていく。
「消えてしまいたい、楽になりたい」
 一度零れ始めれば、止まらなくなる。
「許されたい……なにもできないことを……」
 フェンネルは、零れ落ちた気持ちを、一つずつ拾った。
「……そうか。そんなに望むなら、なにもできなくったって、許してやるよ。けど、一番望んでいるのは何だ?」
「一番、望んでいること……」
 反芻した言葉を飲み込む。悩むまでもない、決まっている。だが、それは。
「できるかどうかは関係ない。お前は、何がしたい?」
「……守り、たい」
「何をだ?」
「……世界を」
「本当にそうか?」
「……」
 再び口を閉ざしたソーダを、フェンネルはじっと待った。雨を映す青い瞳が、揺れる。
「……大切な人を、守りたい。悲しませたくない……けど、俺にはっ!」
 嗚咽とともに、言葉が吐き出されていく。
「無理だ! 挑むほど、戦うほど、諦めないほど、苦しくて辛いだけだ!」
「甘ったれんなよ!」
「……!」
 ソーダの青い瞳が、フェンネルの黒い瞳とぶつかるように、二人の目が合った。うるさいぐらいの雨の中で、その声は響く。
「なんのリスクもなしに、大切な存在を守れると思っているのか? お前の守りたい気持ちってのは、大切に思う気持ちってのは、そんなもんなのか!」
「……違、う」
「なら立ち向かえ!」
 降り止まない雨を吹き飛ばすような勢いで、フェンネルは叫んだ。じっとりと濡れた黒髪から水滴が飛ぶ。
「諦めるのは楽だ。心から諦めてしまえば、もうなにも恐れなくていい、なにも望まないで済む。だが、それは同時に、その程度の望みしか抱いていなかったということでもある。いざとなったら、守れなくてもいい、そんな程度の、大切な存在でしかなかったということだ」
 煽るようなフェンネルの言葉に、ソーダは何かが折れたような、そんな顔をした。
「……お前ってほんと、酷い奴だよな」
「これも世界のためだ、どうとでも言え」
 雨は相変わらず降り続いている。立ち向かうべき壁が大きすぎるという事実も変わらない。だが、全身ずぶ濡れになりながら、二人はほんの少しだけ、笑った。

 *

「ずいぶん濡れたわね……」
「廊下を濡らしてしまい、すみません……」
「あ、それはクリームが拭いてくれるから問題ないわ」
「人をこき使うな!」
 リビングに戻った二人は、カモミールから借りたタオルで全身を拭いた。このままでは身体が冷えるため、できれば着替えたいところでもあるが、生憎この家に男物の服はない。スカートやワンピースならいくらでも貸すと勧められたが、二人は丁寧に断った。幸い薪は十分にあったため、暖炉に火をつけさせてもらい、暖を取りながら服も乾かすことにする。
「ところで、アセロラとコーンはどこに……」
「あ、そうそう、さっき王様がこっそりやってきてね、何か話した後、あなたたちのこと任せて真理の塔に行っちゃったの」
「お、王様!?」
 驚いたあまり、ソーダは持っていた紅茶のカップを落としそうになってしまった。その隣で、フェンネルもかなり動揺している。四人とも国王には会ったことがある以上、偽物の可能性は低いだろう。だが、逆に本物だとしたら、一体何のためにわざわざこんなところまで来たのだろうか。なにかしらの緊急事態が起きているのかもしれない。
「いったい、どんな話を……」
「急いでたみたいだから、あんまり詳しいことは聞けなかったのだけど、真理の塔でゾンビ退治しなきゃならないみたいね」
「ぞ、ゾンビですか……」
 情報が足りなさ過ぎて、何が目的でそうなったのか二人にはさっぱりわからない。クリームから見ても、二人が困惑しているのは明らかだ。
「全部説明してやればいいだろ。お前の地獄耳で、最初から最後まで盗み聞きしてたじゃねぇか」
「地獄耳じゃなくてうさぎ耳、って呼んでほしいわ。まぁでも、そうね、全部話したほうがいいかしら? ちょっと時間はかかるけど」
「そうですね、お願いします」
 フェンネルが頼んだ隣で、ソーダもうなずいた。王様がわざわざ直接伝えに来たのだ、おそらく非常に重要なことであると考えていいだろう。カモミールは説明を始めた。

 *

 雨が降り続く、夕暮れ時の街の中。コーンとアセロラは、再び真理の塔の前に立っていた。
「この塔の上の方が、まさかゾンビまみれだったなんて……」
「怖い話だよね……」
 二人の目的は、真理の塔の最上階に向かい、「魔法無効バリアの解除に関する研究資料」を取ってくることであった。そのためには、窓のない真理の塔の内部を上らなければならないわけだが、それは簡単なことではなかった。真理の塔の上層階は、現在立ち入り禁止となっている。というのも、しばらく前に起きた大きな事故によって、塔の上層階にいた人間は全員ゾンビ化してしまったのだ。それを揉み消すべく、上層階を封鎖した街の管理者たちは、維持費を理由に上層階の研究所を閉鎖したということにし、安全のため立ち入り禁止の扱いにしている。もちろん、この解決法ではゾンビは閉じ込められただけに過ぎず、現在も塔の上部では大量のゾンビが動きまわっている。
「ところで、急がなきゃならないっていうから僕たち二人できちゃったけど、大丈夫かな……アセロラちゃんの専門って、回復魔法だよね」
「あ、それなら任せてください」
 アセロラは、少しだけ得意げな表情をした。
「私、神聖魔法も使えるんです。魔物には全然効かないですけど、ゾンビみたいな呪いで動く存在が相手なら、あっという間に倒せちゃうんです」
「え、ほんと! それなら安心だね!」
「はい! 初めにあの話を聞いた時は慌てましたけど、早く資料を手に入れて、きっとがんばっているであろう先輩とフェンネルさんの努力が無駄にならないようにしましょう!」
 あの話、というのは、王様が真っ先に話した、とても重要な事実だった。魔王は、魔法を無効にするバリアを使うことができる。それは、歴代の勇者の仲間たちが証明してきたことであり、きちんと調べればわかることであった。だが、それを知っている人というのはほとんどいない。魔王は伝説の剣でしかとどめを刺すことができず、歴代の勇者はみな、伝説の剣を物理的な剣として扱って魔王を倒してきたからだ。勇者と共に戦った魔法使いの攻撃が効かなかった話など、魔王が倒されたことの歓喜に沸く中ではすぐに忘れられてしまう。
 だが、ソーダたちにとってそれは、戦う時になってようやくわかってもなんとかなるような些細な問題などではなく、とても重要な大問題であった。ソーダたちに偵察を出し、その様子を見守っていた王様は、この問題に気づくや否や即座に対策を探し始め、それを見つけ出した。そして、この問題そのものについてのことと、解決策である「魔法無効バリアの解除に関する研究資料」のことがアセロラとコーンに伝えられたのが、つい先程のことであった。話を聞いた二人は、偵察の存在に気付けなかったことには多少ショックを受けたものの、勇者たちに任せっきりにしない、真面目で勤勉な国王で助かったとも感じた。もしわからないまま魔王と戦っていたらと考えると、ぞっとする。
「お待ちしておりました、上層階への階段はこちらです」
 解決策を手に入れるべく、意気揚々と塔に入った二人は、事務員に案内され階段を上りはじめた。四階までは役所としての階が続き、五階から十階は研究所として現在も使われている。十一階以降が、上層階と呼ばれ立ち入り禁止となっているエリアであった。もっとも、五十階まであるこの塔の十一階以上が上層というのは変な話でもあるが、地上から見れば十一階も十分高い場所に位置している。十階までの階段を上り終え、コーンは全然平気な様子だが、アセロラはさすがにやや疲れているようだった。
「長い階段だったもんね……大丈夫?」
「まだ、平気ですけど……あと四十階上らないといけないと思うと、ちょっと辛いですね」
 情けない話ですが、とつぶやくアセロラは、申し訳なさそうな顔をしている。ソーダに身体も鍛えるよう言っている手前、あまり頻繁に休むような真似はしたくはない。だが、樫の木の杖の重みもあって、長い階段を上るのが辛いのもまた事実であった。
「そっかぁ……あんまり無理はしないでね? いざとなったら、僕がおんぶするし。ほら、こういうときの役割分担って大事だし」
「ありがとうございます。でも、そうですね、もしそうなったら、その時は全力でゾンビを倒しますね」
「うん、それじゃあ、そろそろ合流しに行こうか」
 二人が十一階へ続く階段の扉を開けると、途端に酷い腐臭が漂ってきた。だが、動いているゾンビの姿はなく、いくつかの腐った肉片が階段の隅に落ちているのみである。ゾンビが見当たらないのは、塔の職員たちが先行して退治に来ているからであろう。二人は手で鼻を覆いながら、螺旋階段を上った。この塔の上層階は、外側をぐるりと回る螺旋階段を一周回るごとに、内側にある各階の部屋の扉にたどり着く構造となっている。一周で一階分だからか、だいぶ緩やかな造りの階段を上っていくと、やがて十一階の扉の前に誰かがいるのが見えた。
「あ、勇者様、の仲間の方ですか?」
「はい、私はアセロラで、こっちはコーンさんです。この塔の方、ですよね?」
 二人に話しかけてきたのは、緑色のローブを着た若い男だった。一階で話した事務員たちと同じバッチを、とんがり帽の端に付けている。
「真理の塔七階研究室職員のバームと申します。簡単な説明は聞いておられると思いますので、現在の状況をお伝えしますね」
「お願いします」
 アセロラが促すと、バームはポケットからメモを取り出し、説明を始めた。
「現在この塔の上層階には、私を含め十五名の職員が入っております。人数が少ないことにつきましては、勇者様の事情も含め、現時点ではなるべく表沙汰にすべきでない要素が多いためですので、どうかご了承願います。我々職員は普段研究を主にしていますが故、戦闘には慣れていない者が多く、決して少数精鋭とも言えませんが……」
「来ていただけるだけでも、ありがたいことです」
「うんうん、僕たちだけだったら、もっと大変だっただろうし」
 ゾンビ退治に参加している職員たちに感謝しつつ、ソーダだったら足手まといだとか言って断ったかもしれないだろうな、と二人は頭の片隅で思った。
「そうおっしゃっていただけると、助かります。えっと、それでですね、この塔の各階の研究室には、扉が開いていてゾンビが出入りしている部屋と、扉が閉まっていてゾンビが閉じ込められている部屋の二通りがあります。最上階に行く分には、階段と開いている部屋のゾンビのみを相手にしていけばよいのですが、この通り階段は一本道です。閉じ込められているゾンビを放置してしまえば、万が一の時それらによって退路を塞がれてしまうかもしれません。そのため我々は、全ての部屋のゾンビを退治しながら進んでおります」
「なるほど……いずれは全て退治する必要もありますし、そうなりますよね。今はどの階まで進んでいますか?」
「申し上げにくいのですが、かなり手こずっており、先ほど十四階を制圧したとの報告を受けたばかりです。ここから先も、まだまだ時間はかかるかと……」
 眉を下げながら申し訳なさそうに答えるバームの前で、アセロラは何かを考えるような仕草をした。
「えーっと……十四階までということは、例の侵入者さんもまだ見つけていないのですよね? そうだとしたら、急がないといけないのも確かですし、私たち二人は部屋の中のゾンビを無視して先に進もうと思うのですが、いいでしょうか? 多少危険は伴いますが、ゾンビが相手なら自信はありますし……下の方は、みなさんが制圧してくださるみたいですから」
「うん、僕もそうしたいと思うんですけど……」
「例の侵入者については、おっしゃる通りまだ見つかっておりません。侵入者が魔王の手下であるかもしれない以上、早く捕まえなければならないのは確かですし、そうされたいのであれば、こちらに止める権利はありませんが……我々が不甲斐無いばかりに、申し訳ありません……」
 ますます申し訳なさそうにしているバームに、アセロラは励ますように言った。
「みなさんがいなかったら、もっと危険な状況になっていました。何もできていないわけじゃないですし、お互い、できることをがんばりましょう!」
「ありがとう、ございます……そうですね、我々も、精一杯がんばらせていただきます」
 感謝するバームに見送られ、二人は更に上へと階段を進んだ。上の階にいる他の職員たちにも挨拶をしながら、上っていく。やがてたどり着いた十五階の扉の前では、ちょうどその付近の階段のゾンビを倒し終え、扉を開けようとしているところのようだ。二人はバームに伝えたことを、手短に話す。
「では、私たちは先に進んで、侵入者の捕獲と資料の確保に急ぎますので……下の階のこと、よろしくお願いしますね」
「はい、できる限りのことをさせていただきます」
 二人は、十六階に続く階段を、先行した職員たちがまだゾンビを倒していないエリアを進み始めた。

 *

 アセロラの杖から溢れる光が、矢のような形を成し、襲いかかってきた三体のゾンビの頭部を貫いた。貫いた光はぐねりと曲がり、それぞれもう一度ゾンビを貫いたかと思うと、今度は黒い塊を引きずりながら飛び出す。黒い塊を引きずる光は、矢から鳥へと形を変え、数度羽ばたいたかと思うと、そのまま霧散した。先ほどまで棍棒を振り回していたゾンビたちは、ぴくりとも動かなくなっている。
「ええっと……これが、三十一階の扉ですね」
「そうみたいだね。それにしても、ゾンビ多いなぁ……」
 階段で遭遇するゾンビだけを相手にし、扉が開いている部屋に関しては中のゾンビをできるだけ刺激しないように扉を閉めてきた二人だったが、それでもすでにかなりの数のゾンビを退治している。アセロラの神聖魔法を使えばそう時間はかからないが、魔法は体力も使う。先はまだ長いが、アセロラは思った以上に疲れを感じつつあった。
「少し休む? ここの扉も、一つ前の階も、鍵がかかってたみたいだし」
「……そうしたほうが、いいかもです。すみません」
「気にしなくていいよ、アセロラちゃんが大半のゾンビをやっつけてきたんだし」
 言いながら、コーンは動かなくなったゾンビを階段の端の方へと寄せた。危険はないが、死体独特の臭いを漂わせるそれを、あまり傍に置いておきたくはない。もっとも、わずかな通気口しかないこの塔ではそれもあまり意味を成さないが、それでも気休め程度にはなる。
「それにしても、侵入者さんはゾンビにどうやって対処してきたんでしょう……動きは鈍いですけど、しつこいですから、無視して進めば囲まれる危険も高まりますし」
「うーん、魔物だったら、仲間と思われて襲われないのかな? 確か、人間かどうかもわかってない、って言ってたよね」
「そうですね、魔物とゾンビはまた別の存在ではありますけど、その可能性も……」
 この塔の上層階には現在、アセロラとコーンの二人の他に、塔の研究者たちと大量のゾンビ、そして、正体不明の侵入者がいると思われている。侵入者の情報は、この日の昼間、国王と塔の管理者たちが話し合っていた際に届いたばかりだ。性別も年齢も人間かどうかもわかっていないが、フードで顔を隠した何者かが、上層階に忍び込んだらしい。ただの泥棒であれば捕まえれば済む話だが、もし魔王の手下で、目的が最上階の資料であったとしたら、資料を燃やすなどされる可能性もある。着実に力を増しつつある魔王のことを考えればもともと時間はあまりなかったが、ソーダたちを待つ時間も惜しんで、なおさら急がなければならなくなったのはそれが理由だ。
「考えてもしかたがないですね、そろそろ行きましょうか」
「うん、でも、きつかったらすぐに言ってね。僕、体力なら自信があるから、おんぶでもなんでも」
「ぎえええぇっ!」
 コーンの言葉を遮るように、階段の上の方から叫び声が聞こえた。少女の声のようだ。距離はだいぶ近い。
「し、侵入者でしょうか!?」
「とりあえず、行ってみよう!」
 二人は声のした方へと、階段を駆け上がった。半周ほど上ると、数体のゾンビの姿が見えてくる。更に数歩進むと、フードを被った一人の少女がゾンビに囲まれているのがわかった。
「ひ、一人に、寄ってたかって、恥ずかしくないのですかー! こんなにいっぱいは、避けられない、です! ひっ、ひえーっ!」
 フード姿の軽装の少女は泣きながらゾンビの攻撃を避けているが、足元がふらついている。このままでは危ない。
「と、とりあえず助けましょう!」
「うん!」
 アセロラはゾンビたちに向かって杖を構え、先端に光を集束させていく。その間にコーンは一気にゾンビとの距離を詰め、手前のニ体を連続で切り裂いた。ニ体のゾンビはバランスを崩すが、しぶとくまだ動いてる。もう一度、今度は縦に深々と切り裂き、止めを刺したところでアセロラの魔法が発動した。
「闇の呪いに囚われし肉体よ、光の導きによりて今、解放されん!」
 放たれた光の矢は、残りの六体のゾンビに突き刺さり、それらを動かしていた呪いを捉えた。黒い塊状の呪いを引きずり出し、光と共に破裂させると、ゾンビたちは全てただの死体に戻り、それっきり動かなくなった。
「ひ、ひええっ」
 先ほどまで襲ってきていたゾンビたちが突然倒れたことに驚いた少女は、思わずぺたんと膝をついてしまった。目深に被っていたフードは、先ほどの魔法による風圧のためかいつの間にか外れており、一つ結びの紫色の髪がアセロラたちの目に入った。
「あれ、どこかで見たような……」
「ひええっ、ごご、ごめんなさい、ごめんなさい、もう逃げませんし巻物も諦めますから、お許しをー!」
 アセロラたちの姿を見た途端、少女は全力で謝り始めた。両手を合わせ、涙目でぺこぺことしている。
「あの、ここへの不法侵入は大問題ですけど、ちょっと落ち着いて……」
「ごめんなさいっ、そそ、それだけじゃないんです! えっと、と、自白するので、どうかじょじょ、じょうじょ、じょうじょーひゃくりょーを!」
 混乱したまま、少女は早口でしゃべる。何はともあれまずは落ち着かせようと、アセロラは少女の肩に手を添えた。
「えっと、情状酌量、ですか? なんのことかわからないですけど、ひとまず落ち着きましょう。このまましゃべっても、ますますわからなくなりますし」
「で、でも、私、ひやっ、ああっ」
 もはや言葉が言葉にならなくなりつつある少女をなんとか落ち着かせるには、それから更に三十分ほどの時間がかかった。三十一階の扉の前まで戻った三人は、水筒に入れてきたお茶を飲みながら、アセロラとコーンが少女を挟む形で座っている。
「えっと、それで、つまり、あの、青い魔法使いさんから、杖と剣を、盗んだのは、私、なんです……軽率に、盗賊の仲間になっちゃったりしたのは、悪いことだったと、反省してます……」
「なるほどなるほど、そして凍りついた盗賊たちを見て、自分もそうなるんじゃないかと思ったのね。街で見かけたときに突然逃げたのも、そういうことかぁ」
「は、はい……」
 うなずく少女は、服装こそ大人びたトレジャーハンターのような格好だが、表情は幼い。背も低く、アセロラより年下かもしれない。
「まぁ、杖と剣の件については、その落とし穴に引っかかった先輩も先輩ですし、無事取り戻せたわけですし……反省もしてる、ってことで、もういいですよね」
「うん、反省してるなら、僕もそれでいいと思うよ」
 罪を問わないアセロラの考えに、コーンもいつもののんびりとした笑顔でうなずいた。
「え、あ、ああありがとうございます! ありがとうございます!」
 少女はお礼を言いながら、何度も頭を下げる。この小心者な少女が、根っからの悪人にはとても見えないということも、二人が許した理由かもしれない。
「ただ、この塔に無断で侵入したことについては、私たちだけじゃまだどうとも言えないのだけど……さっき、巻物がどうとか言ってたよね?」
 目的の資料以外にも、何か重要なものがあるのかもしれない。アセロラは気になっていた。
「あ、あの、それはですね、この塔の最上階に、魔法無効の方法についての、巻物があるって噂を、聞いちゃったんです。なので、それがどうしても、欲しくて……い、今はもう、いらなくなりましたけど……」
「ソーダ先輩の魔法が怖くて、その対策に巻物が欲しかった、ってこと? うーん、でも、そもそもその噂、多分広まる途中で事実から変わっちゃったんだろうなぁ、多分嘘っぽい……」
「え、えええっ! そ、そうなんですか……」
 目を丸くして驚き、そのあとがっくりと肩を落とした少女は、コーン以上に感情の変化がいちいちわかりやすい。嘘がつけるような人間にはとても見えない。彼女の話が本当なのだとしたら、「魔法無効バリアの解除に関する研究資料」が魔法無効の巻物として誤って伝わったと考えるのが妥当であろう。
「効果は全然違うけど、その巻物と似たような名前の資料がここの最上階にあってね、それの誤解だと思う。とりあえず、魔王が関わっていたわけじゃないみたいで、よかったですね」
「うん、それはほんとに、よかったと思う」
 少なくとも、懸念していたような状況でなかったことには、二人とも安心した。一方、安心している二人の間で、少女は再び驚いている。
「ま、魔王ですか! そんな、大層な存在には、会ったことも、ないです……」
「そりゃあそうだよね……ところで、これからどうするの?」
 少女が求めていた巻物はおそらく存在しないとわかり、もし本当にあったとしても手に入れる必要性がなくなってしまった。彼女が最上階を目指す理由はもはやない。
「えっと……上に行く必要は、もうないんですけど……この塔を一人で降りるのは、怖い、です……行きは、がんばりましたけど、それでも帰りは……あの、もしよかったら、一緒に連れて行ってくれませんか? その、避けるばっかりで、あんまり戦えないですけど、足手まといにはならないように、気をつけますし、今までのお詫びに、がんばるので……」
 ゾンビを避けてここまでやってきた彼女にとって、少なくとも階段上のゾンビは全て倒されている道を戻るのは、そう危険なことではない。だが、先ほど囲まれたこともあってか、かなり怯えているようだ。
「うーん、どうしますか?」
「上にどんなゾンビがいるかわからないから、場合によっては一緒に来た方が危ないかもしれないんだけど……それでもいいなら、一緒に来てもいいんじゃないかな、って僕は思うよ」
「ひ、一人の方が、怖いので、それは、大丈夫だと、思います! た、多分!」
 手をぎゅっと握りしめ、少女は大丈夫ですアピールをする。
「それでも構わないのなら……一緒の方が、職員さんにも説明しやすいですし、一緒に行きましょうか」
「あああ、ありがとうございます! それじゃ、その、よろしくお願いします!」
 一人にならずに済んだことを喜ぶ少女は、まるでしっぽを振る犬のようだった。その隣でアセロラは、カップに残っていたお茶を飲み干した。
「そういえば、まだ名乗ってなかったよね。私はアセロラ、そっちはコーンさん。あなたの名前は?」
「あ、私は、ラベンダーって言います」
「ラベンダーちゃん、だね。これからよろしくね!」
「はい!」
 お茶を片付け、ラベンダーを加えて三人になった一行は、再び塔を上り始めた。

 *

 ぐるりぐるり、円い塔を、ゾンビを倒しながら上り続け、ようやく最上階が見えてきた。窓のない塔の中でははっきりとした時間もわからないが、少なくともすでに日付は変わっているだろう。
「やっと、着きましたね」
 最上階付近にゾンビの姿はなく、三人はそのまま、最上階の扉に近づいた。金属製の扉には、この数年の間にすっかりボロボロになってしまったプレートが付いている。文字はほとんど読めないが、辛うじて「無効」と「ア対策」の部分だけ読み取れる。この部屋の中に、目的の資料があると考えて間違いないだろう。
「そうだね。入る前に、ちょっと休む?」
 扉の前に立ちつつ、コーンは尋ねた。結局アセロラは、最後まで自分の足で上ってきたが、かなり疲れているようだった。時間帯もすでに深夜だ、眠くなってきていてもおかしくない。
「すみません……では、少しだけ、休みますね」
 扉の近くに座り込み、三人は僅かにだが休憩をとることにした。その間にコーンが扉の中へ耳を澄ませると、ずずずと何かが動いているような音が、本当に小さな音だが聞こえた。
「やっぱり、何かいるみたいだね」
「こ、ここにも、ゾンビがいっぱい、ですか……」
 ラベンダーは未だにびくびくしている。短剣を数本持っており、彼女も一応戦えるようだが、ゾンビの見た目がまず苦手らしい。
「いるのは当然、ですけど、扉の前で戦えば、よほどゾンビが強かったりしない限り、囲まれることはありません。だから、きっと大丈夫」
「は、はい……」
 アセロラは、ラベンダーの肩を軽く叩いて励ました。
「では、そろそろ行きましょうか」
「うん」
 三人は立ち上がり、コーンは扉の取っ手に手をかける。その後ろでアセロラは杖を構え、ラベンダーも両手で短剣を握った。
「それじゃあ、開けるね」
 金属製の扉を、コーンは一気に開いた。だが、内側に向かって大きく開こうとした扉は、半分も開かないうちに何かにぶつかって止まった。開いた部分からコーンが部屋の中を見ようとすると、その眼前には巨大な腐った肉塊があった。
「こ、これって」
 コーンが思ったことを言い終わらないうちに、今度は扉の上から、巨大な腐った肉塊が降ってきた。まだ足を踏み入れてはいなかったため避けるのは容易だったが、その肉塊は、複数の人間の死体が合わさっているように見えた。そして、巨大な腕のような形を成している。
「きょ、巨大ゾンビ!」
 アセロラは思わず叫びながらも、魔法を杖の先に集中させていく。ゾンビが巨大な分、解かなければならない呪いも強大かもしれない。一方ゾンビは、その腐敗した肉体がぶつかっていた扉から離れ、振り下ろしていた腕を大きく動かしたかと思うと、半開きになっていた扉を巨大な腕で押し開けてしまった。巨大なゾンビの体は扉より大きいが、これで扉付近にいる者を攻撃するには十分なほど動き回れる。
「まだかかりそう?」
「いえ、撃てます!」
 二撃目を加えようと腕を振り上げるゾンビに、アセロラは杖の先端を向けた。下の階で通常のゾンビを倒していた時よりも遥かに大きな光の塊を、矢の形に変えていき、ゾンビの頭部目がけて放った。光の矢は狙い通り頭部を直撃し、しかしゾンビの攻撃は止まらない。二人の方へ勢いよく向かってくる腕を、コーンは大剣で受け止めた。硬くずしりと重たい腕は、勢いを削がれつつもそのまま押してくる。両手で持った剣に精一杯の力を込め、コーンはなんとか腕を押し返したが、アセロラが茫然と見つめる先で、ゾンビは光の矢の大半を弾いてしまっていた。
渾身の一撃が破られ、アセロラの心は揺れる。本当に、勝てるのだろうか。今のアセロラに、これ以上の魔法は使えない。一瞬、アセロラの脳裏にソーダの姿が過った。先輩なら、あの大魔法使いなら、神聖魔法が使えずとも、この程度のゾンビ、氷なり炎なりの魔法であっという間に倒してしまうのではないだろうか。だが、彼は彼で今、大きな困難に直面している最中だ、いつもいつも頼るわけにはいかない。とはいえ、自分たちだけでは。
「こんなの、どうしたら」
 その時、弱音がこぼれたアセロラの隣を、小心者の少女が駆け抜けていった。ゾンビの脇を通り抜け、部屋の奥に向かっていく。
「ら、ラベンダーちゃん!」
「ひ、ひえええっ!」
 巨大なゾンビの陰に隠れていた数体のゾンビが、ここの研究員のものだったと思われる杖を振り回しながら、ラベンダーの方へと集まってきた。その攻撃を悲鳴を上げながら避けつつ、彼女は何かを探しているようだ。涙目で棚を見まわしている。
「そうか、僕たちの目的は……アセロラちゃん、倒せなくてもいいから、できるだけゾンビをこっちに引き付けよう!」
「は、はい!」
 ここに来た一番の目的は、「魔法無効バリアの解除に関する研究資料」を手に入れることだ。ゾンビも倒せるのであれば倒すに越したことはないが、無理に倒す必要もない。資料さえ手に入ればいいのだ。ラベンダーはそのために、彼女なりの行動を起こした。それならば。
「ラベンダーちゃんの、邪魔はさせません!」
 先ほどの魔法で体力を一気に使い、アセロラもふらふらであるが、奥のゾンビたちに無理矢理意識を集中させ、五本の光の矢を放った。見える範囲では、巨大ゾンビを除いて五体いるゾンビのうち、四体に矢が当たる。そして続けて放った小さな炎は、巨大ゾンビにダメージこそ与えられていないものの、ラベンダーに向かいかけた意識をアセロラたちに引き戻すことはできたようだ。巨大ゾンビは再びこぶしを振り上げる。
「あ、足が……」
 巨大ゾンビを引き付けたのはいいものの、一気に魔法を使いすぎたせいか、アセロラの脚から力が抜ける。へたりこみそうになるアセロラを、コーンが支えた。その頭上に襲いかかってきたゾンビの腐った大腕は、大剣でしっかりと受け止める。
「大丈夫、引き付けてくれた分、あとは僕が守るから!」
 出せる限りの力を込め、コーンは重くのしかかってくる肉塊を押し返す。やけに硬いゾンビの体を、切り裂くことはできないものの、落ちてくる向きを変えることはできた。二人の眼前に振り下ろされたゾンビのこぶしは、石の床をめりめりとへこませる。その勢いのあまりゾンビがバランスを崩している隙に、コーンはアセロラを抱え扉の外に座らせた。そして再びゾンビと向き合う。
 一方ラベンダーは、数の減ったゾンビをどうにか避けながら、引き出しを開け放ち、箱はひっくり返し、目的の資料を探して続けた。勢いよく振り回される杖をすれすれで避けながら、本棚の本も調べていく。
「ひっ、ひゃあああっ、わわっ、ぎえぇっ、いたい……」
 なかなか資料を見つけられず、涙で顔がぐしゃぐしゃになっているラベンダーだったが、ゾンビの攻撃を避けた拍子に、机の上に置いてある何かに頭がぶつかった。涙をぬぐいながらその何かをよく見れば、ボロボロの表紙にはかすれた文字で、「魔法」や「解除」そして「資料」の文字が書いてあることが辛うじて読み取れる。灯台下暗しとでも言うべきだろうか、案外わかりやすい場所にそれは置いてあったが、ともかく目的の資料と思われるものが見つかったのは確かだ。ラベンダーは分厚い資料を抱え、扉の方へと走り始めた。だが、巨大ゾンビの位置が悪い。巨大ゾンビは扉を塞ぐように立っており、ラベンダーの後ろからは四体のゾンビが迫ってきている。
「ひえぇっ、で、出口が、あうう」
 ラベンダーの様子に気づいたコーンは、ゾンビの右足に体当たりをした。よろけるゾンビの隙間からラベンダーの腕をつかみ、彼女を引っ張った。ラベンダーもその身軽さでなんとかコーンの方へ飛び込み、手元の資料を見せた。
「た、多分これが、資料、です」
「それじゃあ、ひとまずは逃げよう!」
 ラベンダーが部屋の外に出たことを確認したコーンは、自身も部屋を出て、アセロラを抱える。巨大なゾンビは扉の大きさに対してあまりにも大きすぎるため、出てくることはおそらくないだろう。だが、後ろにいたゾンビが追いかけてくるかもしれない。あの程度であれば倒すことは可能だが、その一方でアセロラが消耗している今、できるだけ戦いたくないのも事実だ。資料をしっかり握ったラベンダーと、アセロラを抱えたコーンは、螺旋階段を下へ下へと一気に駆け降りた。ぐるりぐるりと、各階の扉ぐらいしか目印のない階段を、ひたすらに回り、駆けていく。ゾンビの呻き声は聞こえなくなったが、それでもぐるぐると、何周回ったかわからないほどに降りていった。
「あっ! おかえりなさい、です!」
 下っていく階段の先に、ふと現れた職員が手を振った。後ろにも、何人かいるのが見えてくる。ここが何階なのかはわからない。だが、職員たちと合流した以上もう大丈夫だろう。追ってくるゾンビの姿も見えない。
高い塔の戦いは、ようやく終わりを迎えた。

 *

 持ち帰った資料は、探していた資料で間違いなかったようだ。数年という時間と、ゾンビ化の蔓延した特殊な環境で風化が進み、すぐには読めないようだが、職員たちが総力を挙げれば一日で修復も解読も終わらせられそうだという。様々な魔法を駆使しながら、職員たちはてきぱきと作業を進めていた。
 一方ラベンダーの不法侵入の件についてはといえば、最上階での彼女の活躍をアセロラが力説した甲斐あって、一か月間真理の塔でただ働きをするというところで話はまとまった。その間の衣食住は確保されるらしく、盗賊の手下以外の仕事を見つけられなかった彼女にとっては、ただ働きもむしろありがたいらしい。
「もう、寝ようか……さすがに、へとへと……」
 時刻はすでに、丑三つ時もとうに過ぎ去り、明け方が近づいている。職員たちの勧めで、三人は塔の休憩室に泊まらせてもらうことになっていた。
「あ、あの、その前に、もう一回、お礼、言わせてください」
 枕を抱きしめたままアセロラの方を向いて、ラベンダーは言った。しっかりと結んでいた髪も、今はほどいている。
「私、なんにもできない自分を変えようと思って旅に出たのに、なんか、道を踏み誤ってばっかりで……そのまま死んじゃいそうだったのを、助けてもらって、そのうえ、ちゃんとした道に戻れるように、職員さんたちに説得とか、してくれて……本当に、ありがとうございました」
「……私たちがしたのは、大したことじゃないよ。ちゃんとした道に戻れたのは、ラベンダーちゃんがもともと真面目で、優しい子だったから。それに、私たちがやるべきことをやり遂げられたのは、ラベンダーちゃんのおかげだから……こちらこそ、本当にありがとうね」
 微笑みながら感謝を伝えたアセロラは、未だに緊張の抜けないラベンダーの頭をそっと撫でてあげた。嬉しそうな顔をしながら、ラベンダーは目をこする。彼女もアセロラと同じく、もう眠いのだろう。
「それじゃあ、おやすみ」
 灯りを消して、二人は眠りにつく。長い夜だった。こちらの方はそれでもなんとかなったが、先輩は今どうしているだろうか。きっと大丈夫だと信じながら、アセロラの意識は眠りの世界に落ちた。

 *

 草木も眠る丑三つ時、よりも少し前。ソーダとフェンネルは、魔法使いの里の外、森の近くに来ていた。連携式無差別魔法使用リング、カモミールはでも魔くんと呼んでいるそれを使いこなすべく、初めは彼女の家の地下室を借りていた二人だったが、やはりそう簡単にはうまくいかない。休憩を挟んだのち、気分転換も兼ねて街の外で特訓することを提案したフェンネルに連れられて、ソーダは街の外の平野に来ていた。だが、その表情はやや不服そうである。
「さすがに、杖を置いてきたのはやっぱどうかと思うんだが……」
「緊張感を持つためだ、仕方がない。杖があれば、万が一の時もそれに頼ればいいと甘えてしまうだろ。お前の場合、魔法だけは得意だから余計にな」
「だけってのは余計だろ、だけってのは」
 ぶつぶつと文句を言いながらもソーダは歩く。その背にあるのは伝説の剣のみで、いつもの水色の宝石の付いた杖はなかった。フェンネルの指示で、カモミールの家に置いてきたのである。
「それにもしこんなときに大量の魔物に遭ったらどうするんだよ」
「さっきも言っただろ、その時は俺がなんとかする。提案したのは俺だ、それぐらいの責任はとる」
「それでなんとかならなかったらどうするんだ」
「お前が早いとこ、指輪を使いこなせば済む話だ」
 何度目かの問答を繰り返しながら歩いていた二人は、平野の外れ、森の入り口にたどり着いた。夜は魔物の時間、森は魔物の住処。そう呼ばれるだけのことはあって、夜の森は森そのものが今にも襲いかかってきそうな不気味さをたたえていた。
「本当に、ここに入るのか……」
「この森は魔物の数も強さも、大したことがないと聞いている。実践経験のない者の訓練にも適しているそうだ」
 風に揺れる枝は、悪魔の腕のようにも見える。本当に大したことがないのか、ソーダは疑いたくもなったが、フェンネルはすたすたと森の中へ入って行ってしまった。しぶしぶ、ソーダも後をついていく。ランプは一つずつ持ってはいるが、月が半分以上欠けているこんな日に、はぐれたくはない。張り巡らされた木の根で歩きづらい道を、二人は奥へと進んだ。鬱蒼と茂る木々の中に、何かがいるような気配は絶えないが、どれもただの小動物か、力の弱い魔物なのだろう。今のところ、二人の前に立ちはだかるものはいない。
「このあたりでいいだろう」
 やがて、二人は木々の少ない、やや開けた場所にたどり着いた。たき火の跡もある、ここで訓練が行われもしたのだろう。フェンネルは辺りをざっと見まわすと、白い布の袋を手近な木の根元に置いた。
「この袋に、水筒とカモミールさんがくれたパンが入っている。適当なところで食べろ」
「あぁ……って、俺を置いてどこかに行く気か!?」
「この辺りの目立った魔物をあらかじめ倒しておくだけだ。遠くには行かないし、なにかあればすぐに戻る」
 焦るソーダに、フェンネルはさらりと答えた。そのまま、森の奥へと一人で進んで行ってしまう。
「先に言っとけよ……」
 悪態をつきつつも、ソーダはランプを地面に置き、背中にある伝説の剣に手をのばした。鞘から取り出し、ずっしりとしたそれをどうにか構える。例の指輪は、すでに右手の中指にはめてあった。あとは集中するだけだ。カモミールから教わった魔法を思い出す。
「機構構築の魔法は十分に理解できた。指輪の補助をどう使えばいいのかもわかった」
 ソーダは目を閉じ、下に傾けている剣の方へと意識を向けた。剣の中に作った、仮の機構の存在を確認する。
「そのための集中力を限りなくゼロに近づけ、無意識的に行う。そして仮の機構を利用し」
 そこまでつぶやいて、ソーダは黙った。ひたすらに、剣の中の機構に意識を集中させる。取り出した生命力と集めた魔力を、剣の中で練り上げ、一体化させ。だが、その魔法が発動することはなく、途中で魔力が漏れ出し、霧散した。失敗だ。
「くっ……もう一度だ」
 バラバラになった魔力をかき集め、機構構築のところからやり直す。最初のこの段階にはかなり慣れつつあったが、息をするように、無意識に行うのはまだまだ難しい。
「瞑想は、誰よりもやったつもりだ。集中力なら、誰よりも……!」
 幼い頃の、特訓の日々がソーダの頭をよぎる。小さい頃、クリームから教わった魔法、それだけはうまくできたのに、他のことは何一つ人並みにすらできなかった。自分には魔法しかないと感じたソーダは、勉強も手伝いもなにもかもさぼって、瞑想ばかりしていた。瞑想は、それによる集中力は、魔法を使うことの基本中の基本であり、同時に高みを目指すためにも欠かせない要素であった。魔法が自分の価値の全てなのだから、まずはそれを磨かなければならない。遊ぶことも忘れて、ソーダは一日の大半を特訓に充てていた。
「……また、駄目か」
 毎日毎日瞑想を続け、魔法の演習も人一倍繰り返していた。その集中力が人並み外れていることは確かである。だが、それでもなおうまくいかないほどに、二つの魔法を同時に使うというのは困難なことであった。指輪の効果も、あくまで補助でしかない。必要な集中力が、普通に魔法を使うときとは比べものにならないほどであることには変わりない。
「けど、何度だって、やってやる」
 ソーダは雑念を振り払い、機構の構築から魔法の発動までの流れを、頭の中で何度も繰り返した。剣の中に構築した機構を維持する程度の集中力を残しながら、生命力を取り出し、周囲の魔力を集め、通常の魔法発動の手順を踏んでいく。また失敗した。今度は途中で機構が歪んだ。もう一度、初めから。ソーダは剣を握りなおした。
 それから、何度目のことだろうか。ぐうぅ、という音が、剣を構えると同時に聞こえた。ソーダは顔をしかめる。腹の音だ。思えば夕食は軽くしか食べていなかった。当然と言えば当然のことで。ソーダは仕方なく特訓を中断し、フェンネルが袋を置いて行った方へ向かった。それにしても、フェンネルはいつ戻ってくるのだろうか。近くにいるつもりが迷っていやしないだろうか。そんなことを考えながら、固く結ばれていた紐をほどき、袋からパンを取り出そうとした。
「な、なんだこれ」
 パンだと思ってソーダが触れたそれは、しかしパンとはまるで違う感触であった。冷たく、どことなく湿っぽさがあり、耳たぶにも近いかもしれない柔らかさの物体。そんな何かに驚いたソーダは、思わず袋をひっくり返してしまった。ぼとぼとと地面に落ちたものの中には、パンも水筒もない。薄い緑色の何かの塊と、二つ折りの小さな紙切れがそこにあった。塊の方は、どことなくこねたパン生地のように見えなくもない。緑色の野菜や薬草をふんだんに練りこめば、このような色にもなるだろうか。だが、袋から放り出した途端にその塊から漂い出した、強烈で妙に甘い香りの原因がわからない。ひとまずソーダは、紙切れの方を拾った。
「……魔物用の撒き餌だ、恐れるな、がんばれ」
 読み上げた紙切れを、ソーダは地面に叩きつけた。
「無茶言うな!」
 ソーダは叫ぶが、この紙を突き返したい相手は今この場にいない。いったいどこで何をしているのだろうか。
「子どもを突き落とす親ライオンのつもりか? こんな落とされ方したら普通に死ぬぞ!」
 抗議の声は、深夜の森にむなしく響くばかりだ。そうしている間にも、紙に書かれていた撒き餌と思われる塊は、甘い香りを辺りへ広げていく。それに気づいたソーダは、慌てて緑色の塊を袋の中へと戻したが、袋から出した時点で手遅れだったのかもしれない。辺りに充満した甘い香りは、かなり強力な効果を持っているようだ。何者かが近づいてくる気配は、一つや二つではない。
「強力すぎるだろ! あああっ、もう、あとで覚えてろよ!」
 ソーダは袋をその場に投げ捨て、森の出口の方へと走りだした。だが、持っている灯りは小さなランプ一つのみ、半分以上欠けた月の光は、森の木々に遮られてますます頼りにできない。本当に出口に向かっているのだろうか。わからないまま、ソーダはとにかく走った。何体いるかもわからない魔物を相手にしながら、いつもより遥かに意識を集中させて魔法を使うなんてできるわけがない。逃げるしかない、そう思いながら、でこぼこの地面を駆けた。
「くっ……やっぱり無茶すぎるだろ!」
 全力で走ってはいたが、ただでさえ走るのが遅いソーダが、重たい伝説の剣を持ったまま走っているのだ。逃げ切れるわけがなかった。真っ黒な鳥のような魔物に、あっという間に囲まれてしまう。いったい何匹いるのだろうか。フクロウにも似たその魔物は、大きさこそ子猫程度だが、とにかく数が多い。少なくとも、両手を使っても数えきれない。
「こうなりゃやけだ、当たれえっ!」
 鋭いくちばしで突こうとする魔物の群れ目がけて、ソーダは剣を振り回した。だが、やはり剣の才能は欠片も無いのか、かすりすらしない。くちばしによる攻撃が、ソーダを直撃した。一つ一つの威力は大したものではないが、何体も何体もやってくると、体中が痛む。こんなに怪我をしたのはいつ以来だろうか。
「一匹ぐらい当たってもいいだろ!」
 ソーダは叫びながらもう一度剣を振り回すが、当たりそうになった魔物も、身軽に避けていってしまう。当て方がわからない。逃げることも、剣で物理的に倒すこともできないようだ。魔法で倒すしか手はないのか。考える間も与えずに、鳥形の魔物は容赦なく襲ってくる。その数を数える余裕もないが、次第に増えていることだけはわかった。振り払うことぐらいはできないのだろうか。そんな思いで、ソーダは再度剣を振り回そうとするが、腕が動かない。もはや立っていることもままならなかった。
「くっそ、こんな奴ら、魔法さえ使えたら……!」
 そう思ったところで、どうしようもない。脚から力が抜けていく。気づけば全身血まみれだ。ソーダは、死が間近に迫っていることに気づいた。じわじわと、着実に。駆け出しの冒険者でも倒せるような、小さな魔物によって、死に追いやられていく。
情けない死に方だ。こんな形で自分の人生は終わってしまうのだろうか。こんな形で世界は救われなくなるのだろうか。そんな終わりを認められるのだろうか。誰も守れない自分を許せるのだろうか。このまま諦められるのだろうか。ソーダは自問した。
答えは決まっている。
「諦められる、わけ、あるかっ!」
 思いを声に出し、ソーダは落としかけていた伝説の剣に目をやった。持ち上げることはできないが、剣の柄をしっかりと握りなおす。
「お前らなんかに、殺されるわけにはいかないんだ!」
 今までにない早さで機構を形成し、出せる限りの生命力と、取り込めるだけの魔力を、剣の中に集めていく。それらを反応させて、力を形に。とにかく、この状況をどうにかできればいいのだ。取り込んだ生命力と魔力で膨らんだ、剣の中の機構が崩れかけるが、強引に繋ぎとめる。もう少し、あと少しだけ。生命力と魔力が一体化し、エネルギーが生まれる。とにかくそれを、放った。
「ぶっ、飛べ……!」
 それは、なんの属性も宿していなかった。氷でも、炎でもない、ただの力の流れにすぎない。だが、生命力と魔力を一体化させ、事象を起こす、魔法であることには間違いなかった。
 放たれたエネルギーが莫大だったからか、攻撃としての形を成してはいない魔法だったものの、鳥形の魔物たちは吹き飛ばされていく。このまま去ってくれないだろうか。ソーダは願った。しかし、吹き飛んだ魔物たちのいくらかは、くるりと翼を翻し、舞い戻ってくる。今度こそ剣を取り落したソーダは、迫りくる魔物たちを見上げた。少しも動かない体に、終わりを感じる。もっと早く現実に立ち向かっていたら、何か変わっただろうか。
 その時、一本の矢が魔物を貫いた。魔物は悲鳴を上げ、落ちていく。二本、三本と、矢は次から次へと飛んでくる。ソーダに向かって飛んできていた魔物たちは、みな正確に射抜かれ、地に落ちていった。
「……遅すぎる」
「責任は取ると言った。お前を死なせはしない」
 構えていた弓を下ろし、ソーダの方へ近づいてきたフェンネルは、ソーダほどではないものの、血まみれだった。
「お前、それ……」
「大半は返り血だ。少し厄介なのもいてな、こっちで処理しておいた」
 そう言いながらも、フェンネルはソーダの隣に座り込んでしまった。かなりふらふらなようだ。
「……帰れるのかよ」
「安心しろ、この程度は想定内だ」
「ここで別の魔物が来るのは?」
「さすがに困るが、お前は死なせない」
 ソーダが更に何か言おうとしたとき、上空から突然、何かが現れた。
「あ、いたいた、やっほー」
「あああやめろ! 突然傾けるな! 落ちるって言ってるだろおおお!」
 それは、長い箒に乗ったカモミールとクリームだった。叫ぶクリームを無視して、カモミールは勢いよく二人の側へと箒を下降させる。
「さて、特訓は終わったかしら?」
 箒から飛び降り、カモミールはいつものにこにことした笑顔で尋ねた。その後ろでは、着地に失敗したクリームが腰をさすっている。
「成功はしたんですけど、見ての通りの状態で」
「ふむふむ」
 カモミールはソーダに近づき、傷を観察していく。
「見た目は酷いけど、一つ一つの傷は大したことないし、一日か二日あれば大丈夫ね」
「かなり、辛いんですけど、これ……」
「しゃべれてるうちは大丈夫よ、普段怪我し慣れていない魔法使いだから、辛く感じるだけ」
 無茶する前衛よりはマシだけど、などと言いながら、カモミールはフェンネルに視線を移した。
「それより」
「後でいいです、わかっていますので」
「そう?」
 小声で伝えたフェンネルに、カモミールは不服そうにだがうなずいた。その背後から、ようやく立ち上がったクリームが現れる。
「それにしても、ほんっと血まみれだな……立てるか?」
「立てたとしても立ち上がりたくない」
「そう言うと思った」
 呆れたように笑いながら、クリームはソーダを背負った。散々駄目人間扱いされてきたが、それなりの力はあるらしい。
「そっちは徒歩でいいとして、私の箒二人乗りなんだけど、乗ってく?」
「……いえ、遠慮しておきます」
 すでにふわりと浮かんでいる箒の後ろ側を指し、カモミールは尋ねたが、フェンネルはやんわりと断った。隣でクリームがうなずく。
「それがいい、怪我してるなら、なおさら歩いたほうがマシだ」
「そういう正直すぎるところ、嫌いじゃないけどたまには傷つくなぁ」
「そうかい、だがお前こそ自覚してるなら初めから言うなよ……」
 軽口をたたき合いながら、彼らは森の外へ向かう。フェンネルも、時折呆れたような表情を見せつつもその隣を歩いた。クリームに背負われたまま、ソーダは思う。この二人はどの辺りで待機していたのだろうか。いつごろ合流する予定だったのだろうか。もし二人が間に合わなかったとしたら、フェンネルはどうするつもりだったのだろうか。勇者なのに伝説の剣を使えないという、ずっとどうにもできないと思っていた問題を、まだ不完全とはいえ解決することができて晴れ晴れすると思っていた心に、よくわからないもやが残った。だが、深く考える間もなく、ぼんやりとしていたソーダの意識は、眠りの世界に落ちていった。

 *

 四人が魔法使いの里に来てから、四日目の朝。ソーダの怪我はほとんど治り、伝説の剣を使った魔法も、しっかりとした形を取りつつあった。あとは旅をしながらでも、十分使いこなしていけるだろう。だが、いつ街を出発するかはまだ決まっていない。
「やっぱり、作るのにはけっこうかかるものなのでしょうか」
 朝食のパンを食べながら、アセロラは言った。まだ街を出ない一番の理由は、「魔法無効バリアの解除に関する研究資料」の解読結果に関連してのことであった。方法自体はわかったものの、それに必要な道具があるらしく、研究員たちが総出で今度はその作成にあたっている。
「どうなんだろうな。まぁ、コツを掴んだ俺がこの力を使いこなすまでの早さと比べてしまったら、あいつらも可哀そうだしな」
「よく言いますね、先輩……」
 ソーダの言葉に呆れつつ、アセロラはどこか安心してもいた。先輩は、これぐらい調子に乗っているぐらいでちょうどいい、少なくとも、すっかり自信を無くしているよりかは。そんな風に思った。
「そういえば、カモミールさんも手伝いに行ってるんだよね。こんなにいろいろ作ったり発明したりできるのに、どうして指輪のことを役所の人に報告してなかったのかな?」
「むしろ、作れ過ぎるから、だと聞いた」
 コーンのふとした疑問に、フェンネルが答える。
「俺も気になって、直接聞いてみたんだが、この家を見てもわかる通り、発明品の数がとにかく多い。途中で放り出したものも含めたら、とんでもない数になるそうだ。その全てについて、いちいち報告書を書くのが面倒ならしく、家がこうなっているのも役所の人間から隠れるためなんだと」
「そ、そんな理由だったんだ……」
 何か深刻な理由があるのだと想像していたコーンは、わかりやすくがっくりとした仕草をした。隣のアセロラは、そんな気がしていたのか苦笑いしている。
「お、いたいた。そのはた迷惑なババアから伝言だ、例の道具が完成したらしい」
 ふらりとリビングに入ってきたクリームは、そのままテーブルに近づくと適当なパンを掴んだ。すかさず足元に寄って来た白猫と黒猫が餌をねだるが、後にしてくれと手で追い払う。カモミールの情報網の主力を担う優秀な猫たちだが、こうしているとただの猫だ。
「早く真理の塔に行ってくれよ、遅いと俺のせいにされる」
「師匠が困ろうと別にいいけどな」
「いい加減少しは敬意を持てよ……」
 口を大きく開けパンにかじりつくクリームを横目に、ソーダは立ち上がり食器を片づけ始める。アセロラも残りのパンを急いで食べ終え、それぞれ身支度を始めた。リュックを取ってきて、荷物の確認もする。
「このまま出発するのか?」
 一方通行のこの家の出口に向かおうとするソーダに、クリームは尋ねた。
「多分そうなるな」
「結局、パーティーには入れてくれないのか」
「寝言は寝て言え、何も出来ないくせに」
「まぁ、悲しきかな、そこはあまり否定できないが……自分より駄目なやつがいると安心するだろ?」
 にやりと笑いながら、クリームは言う。
「そうやって、あんたはますます駄目になったんだな」
「これも一つの生きる術だ」
「俺には選べないがな」
 最後にちらりと一瞥し、ソーダは今度こそ出口に向かった。師匠は、昔以上の駄目人間になってしまった。母がもし、この兄の姿を見たらどう思うだろう。だが、幼い日に感じた憂いの目は、もうどこにも見当たらない。そう、口には出さずに思った。

 *

 真理の塔の五階にある、大きな研究室。その部屋の中央に置かれた机に寄りかかって、カモミールは待っていた。周りに塔の職員たちの姿は見えない。ゾンビ退治から、資料の解読、そして道具の製作まで、ほとんど休みなしに働いていたというのだから、彼らももう限界なのだろう。
「全員、来たみたいね」
 部屋に入った四人に、机の前の椅子に座るよう促したカモミールは、いつものにこにことした笑顔ではなかった。笑ってはいるのだが、隠しきれていない深刻な空気が、今までと違う印象を与えた。つられて緊張している四人が座ったのを確認すると、カモミールも傍にあった椅子に座る。
「クリームから聞いてると思うけど、例の道具が完成したわ。これがそのペンダント、ひとまずバリア解除ストーンって呼んでいるのだけど、名前の通り魔王の魔法無効バリアを解除する力があるの」
 カモミールが箱から取り出し、机の上に置いたそれは、細い鎖の付いた透明な石であった。手のひらにすっぽりと収まってしまう程度の大きさの、楕円形の平たいその石には、よく見るとびっしりと文字が彫られているのがわかる。何の文字かは四人ともわからないが、ソーダがカモミールからもらった指輪に彫られていたのと同じ言語の文字であろう。
「この石を掴んで、生命力を込めれば、あとは勝手に発動するようになっているから、魔法使いでなくても扱えるわ。ただ、私がこんなだから、みんな察しちゃってると思うけど……一つとても重要な欠陥があるの」
 カモミールは一呼吸置き、全員を見渡す。
「発動する解除魔法はとても強力で、その分必要なエネルギーも膨大で。端的に言うと、一度の発動で使用者の生命力は尽きる。つまり、死に至るの」
「……」
 広い研究室に、沈黙が下りた。その沈黙を誰かが破ろうとする前に、カモミールは更に続けた。
「先に言っておくけど、複数人による発動や、別のエネルギーの代用、生命力の節約などなど、ここのメンバーで考えられる限りの方法は試したわ。それでも、これが限界で。資料にあった設計図通りなら、最低三人は死ぬ必要があったのよ。だから、これでもかなり頑張った方で、でも、それでも、一人は死ぬ必要があるのだから、とても、威張って言えるような成果じゃないわよね」
 苦々しく言うカモミールの前で、フェンネルが口を開いた。
「それでも、作っていただけただけ、十分ありがたいことです。これがなければ、本当に、どうしようもなくなっていたのですから」
 どんな欠陥があろうと、そのペンダントが魔王を倒すために必要なものだという事実は変わらない。それが現実、ではあるのだが。
「ほ、本当に……どうしようも、ないんですか?」
 震えそうになる声で、アセロラは恐る恐る尋ねた。
「絶対にどうしようもない、とは言い切れないわ。たとえば、あと一年や二年の時間があれば、どうなるかわからない。だけど……魔王はそんなに、待ってくれないでしょ?」
「そう、ですけど……はい……」
 カモミールは椅子から立ち上がり、再度四人の方を向いた。
「このペンダントを使わない限り、魔王を倒すことはできない、ただし使うためには、誰かが犠牲になるしかない。これが、今のところの現実。だけど、誰が使うのか、あるいは別の手段を探すのか、それはあなたたちが決めて。私たちに、どうこう言えることじゃないわ。ただ、一つだけ言わせて……これ以上の手段を見つけられなくて、ごめんなさい」
 顔をうつむかせてそう言うと、カモミールは研究室の外に出ていった。誰も、それを止めることはなかった。扉が閉まり、部屋に静寂が訪れる。だが、その静寂はすぐに破られた。
「……魔法使いである必要がないのなら、俺に使わせてくれ」
 無音になっていた部屋で、初めに口を開いたのはフェンネルだった。
「……なぜだ」
 言いたい言葉ならたくさんあるはずだというのに、ソーダの口から発することができたのはそれだけだった。
「俺には身内がいない。それに年長者で、弓使いは魔王と戦うときの必要性も低い。それで充分だろ?」
「だ、だけどほら、さっき言ってたみたいに、他の手段を探すとか、そういうのも、あるんじゃないかな」
 必死にコーンが提案するが、フェンネルはそれに淡々と答える。
「探すのは構わないが、それで見つかるかどうかはわからない。見つからなかった場合どうするのかは、常に考えていなければならない」
「そ、そう、だけどさ……」
 何も言い返せず、コーンはうなだれる。アセロラも、黙りこくったままだった。秤の向こうにあるのは、世界中の人間の命、それはあまりにも、重すぎる。
「異論がなければ、俺が持っておく。他にどうしようもなければ使う。それで」
「待てよ!」
 ペンダントに手を伸ばそうとしていたフェンネルの言葉を、ソーダが遮った。渋滞してつっかえる言葉を、必死に取り出していく。
「ほんとに、それで、いいのかよ。俺は、俺はあのとき、守りたいと、思ったから、逃げないことにした。それなのに、結局誰かが、犠牲に、なるのなら、俺はいったい、なんのために……!」
 一つずつ、言葉を並べていくソーダの肩に、フェンネルは手を置いた。
「そういう考え方を、否定はしない。不可能に立ち向かうことを促したのは俺だ。俺だって、今の時点で諦めているわけじゃない。だが、それでも現実は残酷で、時間切れになる前に選ばないと、全てを失う。それは、もっと嫌だろ?」
「……」
 ソーダはそれ以上、なにも言えなかった。見慣れていない、フェンネルの優しい顔が、どうにも嫌だと感じた。

 *

 もうすぐ正午になろうかという頃、街の門に向かって歩くソーダたち四人は、魔法使いの里を出ようとしていた。向かう先は魔王の本拠地だ。途中で馬車を借りる話もつけてもらった。順調にいけば、一週間でたどり着けるだろう。多少のトラブルや悪天候に見舞われたとしても、二日や三日の遅れで済むよう準備も整えてある。
「この街とも、もうすぐお別れですね」
 アセロラは振り返り、歯車が浮かぶこの奇怪な街を見つめながら、名残惜しそうにつぶやいた。そして再び前を向いた時、門の側に立っている人影に見覚えがあることに気づいた。
「あ、ラベンダーちゃん!」
「アセロラさん! コーンさん!」
 駆け寄ってくるアセロラに向かって、ラベンダーは嬉しそうに手を振った。
「真理の塔の、お仕事は?」
「お見送りがしたいって言ったら、少しの間だけ、許可してもらえました!」
 満面の笑みを浮かべるラベンダーの頭を、アセロラは優しく撫でた。その後ろから、ソーダたちも追いついてくる。
「……」
「あ……」
 ソーダと目が合い、笑っていたはずのラベンダーの顔が固まった。杖と剣を盗んだ件については、アセロラとコーンに許してもらってはいるが、ソーダ自身とはまだ直接話していない。どう謝ればいいのかと、頭が混乱していく。一方、ソーダの方はといえば、アセロラたちから一連の話を聞き、恨む気持ちはすっかり薄れていたのだが、どう話しかければいいのかわからずにいた。
「え、えええっと、その、あの……」
「だ、大丈夫、安心して、落ち着いて……」
 あたふたしているラベンダーに、アセロラはゆっくりと話しかけ、落ち着かせようとした。つられて動揺しているソーダのことは、なんとかなるだろうとスルーする。
「あ、いや、別に、まだ怒ってる、わけじゃないから……」
「そうそう、ほら、深呼吸して」
「は、はい。すーっ、はぁーっ」
 アセロラに助けられ、なんとか落ち着きつつあるラベンダーは、もう一度ソーダと目を合わせ、しかし結局保てなかったのか、ややうつむき加減になりながら言葉を紡いだ。
「えっと、その……大事な杖と剣、盗んじゃって、本当に、ごめんなさい」
 謝罪の言葉とともに、ラベンダーは深々と頭を下げた。
「いや、あれは、俺の不注意もあったし……そりゃ、しばらくは怒ったけど、今はもう、許してるし……その、あれだ、アセロラたちの、俺たちの、手伝いをしてくれてありがとう」
「そ、そそそんな、お礼を、言っていただけるほどのこと、なんて、全然、できて、ない、ですけど……」
 顔を上げたラベンダーは、今度は照れているのか顔が真っ赤に染まり、手をぶんぶんと振っている。その様子を、アセロラは優しい笑みで見ていた。
「そういえば、カモミールさんたちは来てないのかな?」
 ふと気になり、コーンはつぶやいた。
「カモミールさんなら、職員と一緒に塔の仮眠室で熟睡中らしい。連日徹夜で作業していたそうだからな」
 事務員から聞いた話を思い出しながら、フェンネルは答える。街を出る前にもう一度挨拶しておこうと思い尋ねたが、そういうことならと諦めていた。
「そっか……本当に、一生懸命がんばってくれたんだね」
「そうだな」
 二人は何となく、振り返って真理の塔を眺めた。残っている疑問も、辛い思い出も多い塔だが、また訪れる機会はあるのだろうか。職員たちやカモミールと、ゆっくり話せる日は来るのだろうか。
「それじゃあ、そろそろ、お別れだね」
 二人の背後で、アセロラはラベンダーに別れを告げていた。
「あの、またいつか……会えるでしょうか?」
「……魔王のいない、平和な世界に戻ったら、もう一度会いに来るから、それまで、待っててくれないかな」
「はいっ!」
 アセロラは最後に、もう一度ラベンダーの頭を撫でた。そして、門の向こうに視線を移す。ソーダも、門から見える街の外を、まっすぐに見据えていた。
 諦めたくないことはまだ残っているが、魔王だっていつまでも待っていてはくれない。そう自分に言い聞かせ、ソーダは街の外へと、一歩踏み出した。

 

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