雨小屋-あまごや-
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雑記

ツイッターでつぶやくにはちょっと長すぎたりするけど、サイトトップの日記に書くような内容でもないなぁ、と思ったことをつらつらっと書いてくかと。

ブログみたいなページなのかも。


2021.06.28

少し前に見かけた、レビューの採点基準の国による違い? みたいな感じの話が、ちょっと引っかかったので。

ついったさんで流れてきたのを、ツイートだけ流し読みしたのがほとんどなので、正直自分が誤解してるところとかもありそうなのですが、おそらく誤解があっても変わらないであろう最終的な結論は、プラットフォーム側が採点の基準を明確にしてくれるのが多分理想だよね、です。

この言語圏のユーザーは採点が厳しいから翻訳の優先度を下げる→母国語で遊べるゲームが減る、という流れを回避するために採点基準を変えていこう、という話ならわかるのですが。
この採点基準はよくない、こっちの採点基準のほうがよい、みたいな優劣をつけられると、正直もやもやっとします。

どんな基準で採点をするかなんて人それぞれで、文化や生活、いろんな要素も影響するはずで、国や地域で違いが生まれるのも当然で、そこに優劣はないと自分は思ってます。
なので、結果として不利になるからこうした方がいい、はわかるのですが、どちらの方が優れてる、劣ってる、みたいな言い方をされるとなんか違う、と感じます。
(好みとして、こういう点数の付け方が好き、は自分もありますが、あくまで好みであって優劣ではないので)

そしてやっぱり理想は、プラットフォーム側がそういった違いがあることを前提として、ここのレビューではこういった基準で点数をつけてください、というのを明確にしてくれることなのかなぁと。
そのためにユーザーからできることは要望を出すぐらいしかないので、結局は、不利益を回避するために自分たちの採点基準を変えていく方向に動くしかないのだろうとは思いますが。

あと、Good/Badみたいな二択形式のほうが、5段階評価とかよりも採点基準の違いが影響し辛いのかな?
そうだとしたら、採点基準の明確化は読まない人もいるだろうし、そっちの方がいいのかな……


2019.06.26

ちょっともやもやっとしたことを。

たまに、こういう展開はNGとか悪とか罪とかいろいろ言ってるツイートが回ってきますが、その度に、それってあくまで個人の好みでは? という気持ちがあったり。

そういう展開が嫌いなら嫌いでそれでいいと思うのですが(自分も好きじゃない展開はありますし)、それ自体を悪いものと言って否定するのはどうなのかな、と。

ちょうどたまたま、万人受けする作品を作るのが難しいように、誰からも嫌われる作品を作るのは難しい、的なツイートを見かけたばかりなのですが(内容は割とうろ覚え)、多くの人に嫌われていようとそれでも好きだと感じる人のいる展開とかってたくさんあると自分は思っていまして。

結局のところは作品ごとの描き方次第でもあるので単純な話でもないのですが、否定されている○○な展開の中には自分が好きだと思ったものもあったりで。
やっぱり個人の好き嫌いを良い悪いとかで話されると、もやもやっとするなぁみたいなそんなお話。

ところで、これはあくまで好き嫌いで済む部分の話で、呼び方の問題とか広告の表記とかはまた別問題。
自分のTLには人外やケモノ系のお話がよく流れてきますが、見た目が人間の人外も猫耳やしっぽとかが付いてるだけの子も、住み分けとかがきちんとできればみんな幸せになれるのかなぁとか思いながら見ていたり。
見た目はどう見ても人間だけど中身が人間からかけ離れてるとかも結構好き。


2018.12.2

チラシの裏感覚で、ちょっと思ったことを。

自身や自身の作品について過度に謙遜する、ということについてどうこうみたいな話題、たまに見かける気がするのですが、もっと自信を持つべきというような意見に、自分はちょっと釈然としないところがあったり。

なんていうか、なぜ謙遜するのか、予防線を張るのか、みたいな部分をもっと大事にしたほうがいいんじゃないのかなぁと思っていて。
そしてその要因の一つには、叩かれたり誹謗中傷を受けたりその他諸々が怖い、面倒、などなどの理由があるはずで(自分にもそういう部分があるのは否定できないし)

そういうのに対して、作品を作って発表する側が強くなってスルーできるようになる、っていうのは確かに手っ取り早い解決策ではあると思うんだけど、それを本人以外が求めるのは違うんじゃないかなと思う。
いじめに遭ってる子に対してその子自身に強くなるよう言ってるようなものじゃないかな、という風に自分は思ってて、でも悪いのはいじめてる側、攻撃してる側だよね、と。

ただ、攻撃する側をどうこうするのもなかなか難しいというか、限度はあるよねという話でもあって、少なくとも人の良心に任せてどうにかなるなら犯罪なんてとっくになくなっているはずで。
少なくとも現実的には、攻撃ができない、攻撃が届かない、そういう仕組みを作るしかないんじゃないかなぁと思ってる。

あとそういう仕組みについては、マシュマロってすごいなぁと思ってて、今後の進化にも密かに期待してたり。
この前ディープラーニング勉強したときには、これ応用すれば単純な単語によるフィルターよりもずっと高精度なフィルターとかも作れるんじゃないかなぁとかも思ったし、こういう問題を、精神論とかじゃなくて、技術の進歩で乗り越えていけたらいいなぁとかなんとか。

もっとも、自信を持つ、とかの話については、どういう環境で育てられたか、みたいな部分も大きいと思ってて、そこをどうにかするとなると技術の進歩だけじゃなくて、法律、制度、学校教育、なんかいろんなものが関わってくるんじゃないかなぁとも思うのだけれど、そういうのもちょっとずつでもいい方向に変わっていったらいいなぁと。


2017.6.4

ちょっとだけ、思うことを、ぶつぶつと。

一人で全部抱え込んで無理してイライラしたりしてる人よりも、周りをしっかり頼ってくれたほうが周りも助かる、みたいな意見、わかるし実際のところそうやったほうが効率もいいことが多いんだろうなぁとは思うのですが、そういう主張をする方には、人の信頼を裏切らない人であってほしいなぁとも思うのです。
なんというか、人を頼らない側の人間の言い分もちょっとは聞いて欲しいなぁという気持ちがありまして。

私自身は、人を信用することはできるのですが信頼することがとても苦手です。
昔はもうちょっとはマシだったと思うのですが、気づけばかなり苦手になっていました。

なぜ苦手なのかといえば、裏切られるのが怖いからです。
悪意があろうとなかろうと、信頼を裏切られるのがとても怖い。
今まで何度も何度も裏切られてきたことがトラウマになっている部分もあるのかもしれません。
ほとんど、あるいは全部、悪意はないのだろうなと思うのですが、だからこそ怖いです。

自分に対して悪意の無い、信用できる人だとしても、締切を破ったり、そのものを忘れたり、ギリギリになってできないと言われたり。
自分でやったほうがよかったなぁと思いました。
多少嫌われてでも、何度も催促したり進捗を聞くべきだったなぁと思いました。

例えば、自分で全部やったら締切にギリギリ間に合う仕事があるとして、その仕事の一部を人に頼むと、少し余裕を持って取り組める代わりに任せた人が締切を守らなかったら全体の締切にも間に合わなくなる、としたら、自分は迷わず全部自分でやろうとするんだろうなぁと思います。
人に頼ってもどうせまた裏切られる、それなら初めから全部自分でやったほうが早く終わるし手間もかからない、真っ先に至るのがそういう思考なのです。

もちろん、自分の側にも、相手の力量や状態、状況などを見極めて適切な仕事を頼む力や、それとなく進捗を把握したりするような上手な締切管理をする力など、足りていない部分はあるのだろうなぁと思います。
また、人を頼らない人たちの理由はきっと様々で、中には自分勝手な理由の人もいるのだろうなぁとも思います。

ただ、それでも、人に頼ってほしいときには言葉よりもまず相手の信頼に応える行動を大切にする、とか、頼ってほしかったと相手に言う前に自分の行動を振り返る、とか、そういうことをする人が増えたら、人を信頼できる人が少しは増えるような気がします。


2016.7.16

ちょっと、なんだかなぁと思っちゃったので、少しだけ。
他の人に好きなものを批判されても、好きでいられるとか、好きでいられなくなっちゃうとか、そういうのって、好きの度合いとか、本当に好きかどうかみたいな話じゃなくて、得意不得意みたいな話なんじゃないのかなぁ、と私は思っていて。

勉強が苦手とか運動が苦手みたいに、批判を聞くのが苦手ってのもあるんじゃないのかなぁって思う。
もちろん、批判とかに対して強くなれるならそうするに越したこともないとは思うけど、苦手なことをなんでも克服できるほど、人間って強くないんじゃないかなぁって。

どうがんばっても生のトマトは苦手だしコーヒー飲めないし鉄棒でぐるぐる回ったりなんてできない。

だから、苦手な人自身はそういうのをできるだけ視界に入れないように自己防衛ってやり方でどうにかしようとしてみるとか、周りの人は、別にこういうのに限った話じゃないけど、相手のことをちゃんと考えた発言をするとか、そういうやり方でもいいんじゃないかなぁってなる。

批判を聞いてもっと好きになるっていうのは、素敵なことだと思うけど、それは、本当に好きだからできる、というよりかは、そういう考え方をするのが得意だからできるんじゃないかな、って私は寝起きの頭で思うのでした。

そもそも、本当に好きっていうのがどういうものかも曖昧だと思うし、どんな風に好きでいようと別にいいんじゃないかなとかなんとか。

あと、別に批判はよくない的なことを言うつもりはないし、それはそれでその人の自由だと思うんだけど、批判を見ないのもまた自由だと思うし、批判を見ても好きでいるのが辛いのを、好きの度合いが低いからとか、批判を見ても平気なぐらい好きになれとか言うのは、なんか違う気がするとか、そんなお話。
 

3月頃、批判を聞いて作品を好きでいられなくなった的な漫画(タイトル思い出せなくて検索もできないですが……)が話題になった時、こういう一連のツイートをつぶやいたことがあったのですが、そのあとまた思うことがあったので、こっちで追記のような何か。

なんというか、得意とか苦手、って表現でこの時は書いたけど、精神(私は大体MPって呼んでる)の消費の度合いの差とかもあるかなぁとか思うのです。

自分の場合、けっこう打たれ弱くて、メンタルあんまり強い方ではないので、誰に対するものであろうと、批判とか攻撃的な意見は、割と見るだけでMP削れます。つまり精神的に疲れます。

ただ、それでも、その対象が自分自身や自分の作品とかだったりすると、弱音ばっかり吐いてもいられないと感じて、それに対して立ち向かおうとできる。

今やってることで得られる感覚や、その先に待っているものが、消費するMPに対して釣り合っている、あるいはそれ以上だと感じられるから、そうなるのかな、って思います。

ただ、自分の好きな作品に対する批判とか攻撃とかの場合だと、なかなかそうもいかないところがあって。

作品への向きあい方は人それぞれ、時と場合によっても変わると思うのですが、ただ楽しみたいと思って見ている時に、批判とかが視界に入って来ると、それに対して立ち向かったとしてもスルーしたとしても、MPはどんどん削られていくわけで。

その状況は自分の力で打開できるわけでもないので(自分の作品と違って、もっとおもしろいものを作るぞ! みたいにはいかない)、MPが釣り合わなくなってくると、いよいよ心が疲れてきて、作品から離れる結果になるのかなとか。

それはやっぱり悲しいことなので、結局のところは、住み分けって大事だよね、ってとこに行きつく。

これに限った話じゃないのですが、こんな広い世界で全員が仲良くなれるわけないと思っている派なので、住み分けはとっても大事だと思ってます。

そして、なんていうのかな、私には、批判を見ても平気なぐらい好きになれ、的な意見が、本当に好きなら住み分けしなくても平気みたいなことを言われているように聞こえてしまうのです。
多分そこまで極端な意見ではないと思いますが……

もっと優しい世界だったらいいのになぁとかなんとか。


2016.6.28

内面世界の豊かさを失ったオタクたちは、ただただ醜い。

同人やめました

上の方の記事がツイッターで回って来て、そちらと、そちらで紹介されていた下の記事をざっくり読んでみたのですが、なんだか引っかかるところが多くて、けれど140字以内にはまとめられないのでこっちで。

一応先に書いておきますが、引っかかるといってもそんなにネガティブな意味じゃなくて、ただ、自分に見えてる世界との違いが大きいなぁと感じたような、そんな感じの引っかかりです。
 

まず、ストーリー重視の作品が少なくなったというのが、自分にはいまいち実感できなくて。
もっとも、規模の大きなジャンルのことはよくわからず、自分の好きな作品の好きな傾向の二次創作をひっそり追いかけてるだけの人なので(しかもそれがちょうどストーリー重視)、広い世界ではそうなのかもしれないです。

所謂地雷というほどではないのですが(見かける分には平気)、無関係なパロディ、夢、R18あたりが苦手な傾向にあって、基本的に避けているので、そのあたりがもてはやされていても気づいてないのかも。

ただ、自分の好きなジャンルの、好きなキャラクターに関する作品で、なんというか、原作の考察を元に、描かれていない部分を補完するようなタイプの、お話重視な感じの、とても好きな作品があるのですが、その作品はしっかり評価されていて、やっぱり、ジャンルによって違いもあるのかな、とか。

もしそうだとしたら、自分の好きなジャンルの中でも、比較的規模の大きなジャンルは、お話重視の作品をちらほら探しだすことができて、それは今の世の中ではとても幸せなことなのかもなぁと思いました。
マイナーなジャンルは、なんていうか、好きなキャラクターの絵が一枚でもあればとても幸せなので……
小説とか漫画は、自給自足すればいいんだ……

あと、自分が書く(描く)側の時だと、好きだから描いた(書いた)ものをせっかくだから載せてる、とか、布教したい、とか、公式のイラコンだと公式へのこのキャラ好きですアピールが含まれてたり、とかだけど、そもそも自分の活動のメインは一次創作だから、その辺りは全然違うんだろうなぁと思いました。

ツイッターも、二次創作で繋がった方はほとんどいないですし……
ツイッターとピクシブのいつものアカウントは、あくまでオリジナルがメインで、一応ピクシブは二次創作の小説を同じアカウントで投稿するのが恥ずかしくてそれ用のアカウントがあったりですが、小説の投稿以外には一切使ってなかったり。

そんな感じで、二次創作はしてはいるけれど、なんだろう、原作を読んだり見たりして抑えきれなくなった気持ちをどうにか形にしたくて動いた結果なんか生まれたからなんか投稿したりしてるだけで、それが主な活動ってわけでもないし、二次創作で交流することもほとんどないから、いろいろ違うんだろうなぁと思ったのでした。

イベントも、サークル参加は漫研としてオリジナルで参加したことぐらいしかないですし……
あと、都市部の大規模なイベントと地方の小規模なイベントだと、またいろいろ勝手が違いそう……

そんな、視界の違いに関するお話。
記事を書かれた方々に見えている世界を否定するつもりは全然ないのですが、自分の視界との違いが大きくて、その距離感を測りたかったりとかそんな感じであれこれ考えてました。
 

それから、「濃い作品考察、キャラ解釈は嫌われる」というのにも、ちょっと違和感を感じました。

ここから先に書くことは、本当に、私自身の感じる好き嫌いから、もしかしたらと考えている程度なので、根拠もなにもなく、さらっと流してもらえるとありがたいです。

実のところ私は、男性の話す(書く)作品考察やキャラ解釈が苦手なことが多くて、その一方で女性の話す(書く)考察は大好きなことが多くて、もっと聞きたい(読みたい)となることも多いです。
比べた時、考察や解釈の内容そのものは似通っていることもあり、多分作品考察やキャラ解釈そのものは好きなのだと思います。
ただ、話し方が苦手なんじゃないかな、と思うのです。
だから、嫌われてるのは案外と濃い作品考察やキャラ解釈そのものよりも、話し方なのかもしれない、とかなんとか。
どこがどう苦手なのか、というのが自分でもうまく言語化できないのでどうにもですが……
これは本当に、個人的なことかも。
作品考察に限らず、哲学的な話とか、ゲームの攻略の話とか、そういうところでよく遭遇するのですが、苦手な話し方、雰囲気があって(そしてどうにも圧倒的に男性の場合が多い)、なんというか、もっとふわっと?話してもらえたら、同じ内容でも、好きになれるのかもしれないのになぁ、とか、そんな風に感じたり。
そして、本当に想像の話だけど、目の前でされようとしている作品考察とかが嫌いなわけではないけれど、前に遭遇した考察だとかが苦手な感じで、だからそういうのを全部シャットアウトしたくて嫌っているような、そういう人たちもいるのかなぁとか。
更に想像から発展しての想像だけど、そういう人たちも、作品考察そのもののじゃなくて、そこから発展して生まれた二次創作の小説や漫画は受け入れてくれたりすることもあるんじゃないかなぁとか。

そんな感じで、後半、全然まとまってないですが、私は濃い作品考察とかキャラ解釈が好きです。
それを元に作った二次創作が大好きです。
でも結局なにが言いたかったんだろう……

あれかな、一次創作だと、少なくとも自分の周りは、キャラの設定とかもっと聞かせて!って感じの雰囲気が強い気がして、自分も人の創作の話聞くの好きだから、そのあたりとだぶって違和感感じたのかな……
話繋がってないけど……

(2017.02.16追記)
この類の記事とかツイートに対するもやもやの原因が、自分なりにわかってきたので追記。
多分、○○は××的な意見を見かけたときに、自分や知り合いが○○だけど××じゃないときに感じる、怒り悲しみその他もろもろ、負の感情のもやもや現象なんだろうなぁと最近は解釈しています。
よく見かけるのだと、絵師は○○とかそういうの。

書いた人は○○の人全員が××とは思っていないかもしれないけれど、そういうのって書かなきゃ読み手には伝わらないことがほとんどなわけで。

○○の人の多くは××、とか、××の人が多い、とか、○○の人の一部は××、とか、とにかくそういう、当てはまらない人もいるよ! って書き方にするだけでだいぶ柔らかくなるように思うので、自分はその辺り気をつけたいなぁと思うのでした。

○○は××! って断定したほうがインパクトはあるし、あんまり曖昧な表現ばかり使うのもよくないのかなとは思いますが、それでも自分は、できるだけ人を傷つけたくないし余計な争いはしたくないです……

(2018.6.23追記)
結局のところ、最近よく見かけるようになった、主語の大きい言い方って避けたいよねみたいな話に落ち着きそうな感じがする……


2016.6.24

親が見てたバラエティで、人の見た目にはその人の中身が表れるのか的な話をしてて、絵柄に人柄が出るか否かの話に似たものを感じたのでした。

私は、見た目にせよ絵柄にせよ、人柄は出るかもしれない(ただし見抜く能力を十分に持った人は珍しい)
ぐらいに思っていたり。

絵って結局、その人の経験とかをもとに描いてるんじゃないかな、って思うのと、でも、それを見抜くのはとても難しいことだとも思う。

だから、絵柄に人柄は表れないから、って理由じゃなくて、その能力が足りない可能性が高いから、って理由で、絵で人を判断するのはよくないように思うし、同時に、見抜くことのプロの方が判断したのなら、ある程度それを信用できるようにも思う。

あと、人の見た目の話だと、見た目全部をひとくくりにして考えちゃうのはよくないんじゃないかなって思う。

身長とか、顔のパーツの配置とか、肌の色とかって、基本的には、努力してもなかなかどうにもならない。
けど、体型とか、清潔感とか、そういうのは、例外もあるけど、割と努力次第でなんとかなるはず。

そういう話に詳しいわけじゃないけど、なんか、その辺がごっちゃになってることが多い気がする。